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聖徳太子によって開基された日牟礼八幡神社上社の別当寺院

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こうりゅうじ

興隆寺

滋賀県近江八幡市

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聖徳太子が開山したと伝わる寺院が多い滋賀県。興隆寺は、その中の一つで、推古天皇の二十七年三月に八幡神社上社の別当寺院として、日牟礼八幡山の大平に建てられました。別当寺院として位の高い寺院として栄え、室町時代の文安3年(1446)に後光厳天皇が行幸にいらした際には、警護武士の屯所にもなっていました。その後織田信長の比叡山焼き討ちの時にはこのお寺も攻められ、浄土宗に一時宗派を変えて維持されます。江戸時代に入り天台宗として再興運動が行われ、天台宗の教えを後世に守り伝えています。

巡りポイント

聖徳太子によって開かれ八幡神社上社の別当寺院であった興隆寺には、様々な時代に造立された魅力的な仏さまが数多くおまつりされています。焼討ちなどの戦乱を乗り越え今に伝わる仏さまの優しい表情からは、仏さまを伝えた先人たちの息遣いが聞こえてくるかのようです。

ご本尊・大日如来坐像 (近江八幡市指定文化財)

  • ご本尊・大日如来坐像 (近江八幡市指定文化財)
  • ご本尊・大日如来坐像 (近江八幡市指定文化財)
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焼き討ち等から守られ伝えられている平安仏

興隆寺の本尊は頭には宝冠を着け、お腹の前で掌を上に向け両親指をつける法界定印という手の形を結ぶ胎蔵界大日如来坐像で、平安時代末期に造られた像である。現在は三尊形式で両隣の菩薩像とともにまつられているが、本来は異なる組み合わせでまつられていた。織田信長の焼き討ち等から守られ、現在まで伝えられている貴重なお像である。

感想■織田信長による焼き討ちで攻められたことは、とても大変なことだったのだと思います。そうした中でどうにか守っていこうとしたことによって、この大日如来坐像が守られたことに感動しました。小さいお像ですが、端正な顔立ち、穏やかな表現の衣等丁寧に造られており、大伽藍であった興隆寺の一部を感じられるようでした。

木造弥勒仏坐像(滋賀県指定文化財)

  • 木造弥勒仏坐像(滋賀県指定文化財)
  • 木造弥勒仏坐像(滋賀県指定文化財)
  • 木造弥勒仏坐像(滋賀県指定文化財)
  • 木造弥勒仏坐像(滋賀県指定文化財)
  • 木造弥勒仏坐像(滋賀県指定文化財)
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火災の被害に遭いながらも、その姿を今に残す弥勒さま

弥勒仏坐像は一木造りの像で、平安時代末期の像である。平成に火災が発生し、この弥勒像も被害にあってしまった。そのため、もとは木の色がそのまま見える像であったが、真っ黒くなってしまっている。 ただ黒くなってしまってはいるものの不思議とお顔の表情や衣の表現等がよく残り、現在は県指定の文化財になっている。

感想■真っ黒く全身が火災の被害に遭ったことを実感させる姿でありながら、彫刻としての姿がきれいに残っていることは奇跡であるように感じました。仏さまの強い霊験を実感できるようでした。

興隆寺の堂宇

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再興・再建を繰り返しながら、今に興隆寺の歴史を伝える

現在の本堂は、江戸時代にこのお寺が再興された後の建築であり、弥勒堂は平成の火災後に造られた建築である。山の中腹に位置していた頃の堂宇は今よりも巨大なものであった。元来の興隆寺弥勒堂は、天正4年(1576)に織田信長が安土城を築き城下町に寺院を建立するにあたり移築され、現在も安土の浄厳院の本堂として伝えられている。

感想■かつての興隆寺の建物の一部が滋賀県内の一部に移され残っていることを聞き、驚きました。興隆寺の建物は、移してまで使おうと思わせるほど立派な建物であったのだと思います。宗派を変えながら残ったということも合わせて考えると、どうにか興隆寺の伝統を守っていこうと様々なことを奮闘した人々の存在に気づかされ、そのような人々が存在していたからこそ現在にまでお寺が残っていることを考えると感慨深いと思いました。

report

学生レポート

奈良大学大学院1回生

ご住職の案内の中でもとは山の上にあった大寺院であったのが、信長の焼き討ちの被害にあったり、火事によって弥勒堂が火事によって焼けてしまっていたりと多くの出来事を乗り越えて今に至る寺院であることを聞きました。弥勒像を拝見させていただいたとき、黒く炭化してしまっている姿からは火事による影響が表れているものの、姿としたら比較的よく残っており、衣の表現や顔の表情が伺える現状は奇跡のようにも感じました。このような多くの困難を乗り越え現在にも残り篤く信仰されていることは奇跡のようですが、多くの人々の祈りを集め多くの人々の救いになっていた場所であったからこそ、興隆寺というお寺が守り伝えられ、近年でも再び弥勒仏をまつるお堂が再建されているのだと感じました。またそれにはご住職をはじめとした歴々の僧侶の皆様の熱い信仰と想いがあったからこそ、周りの人々を動かし、今に至っているのだと思いました。

history

ご由緒

推古天皇二十七年三月に八幡神社上社の別当寺院として、聖徳太子によって日牟礼八幡山の大平に建てられ、その後は比叡山延暦寺正覚院末に属することとなる。天正9年(1580)の文書によると、本堂・妙光寺・炎摩堂・連光寺の諸堂だけではなく、他にも建物のある大きな寺院で、当時はこの場所から少し離れた八幡山の中腹にあった。  室町時代の文安3年(1446)に後光厳天皇が行幸に来た際には、警護武士の屯所にもなった。比叡山焼き討ちの前の永禄年間には、叡山山門派の修験道の寺でもあり、その頃は京都若王寺の末寺になっていた。元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちの時に攻められ、焼討ち後に浄土宗に宗派を変えて維持されたという。寛永10年(1633)に僧淋下坊が、檀信徒とともに運動を起こし、この多賀の地に天台宗として再興され今に至る。

info

参拝情報

名称
比牟礼山興隆寺
(ひむれざんこうりゅうじ)
所在地
滋賀県近江八幡市多賀町667
googleMAP
参拝時間
堂内参拝は事前連絡
拝観料
志納
宗派
天台宗
御本尊
大日如来
宝物殿
なし
アクセス
■公共交通機関
JR近江八幡駅下車後、近江鉄道・湖国バス乗車。鍛冶屋町バス停下車後徒歩5分。
駐車場
なし

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