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ご由緒
推古天皇27年に推古天皇の勅願に従い聖徳太子により創建されたという。聖徳太子は近江の国に48か所の寺院建立を行うことを目標とし、願成就寺は最後の48か所目の寺院であった。そのため、無事に48か所の寺院が建立され、願いが成就したということから『願成就寺』と名付けられた。中世までには日牟禮八幡宮の別当寺となり、神仏習合の信仰が今でも色濃く伝えられている。
聖徳太子の願いが成就したお寺
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がんじょうじゅじ
滋賀県近江八幡市
願成就寺には創建した聖徳太子ゆかりの仏さまや神仏習合の文化を今に伝える仏さまなど様々な仏さまがおまつりされています。
本堂の中央の厨子におまつりされる願成就寺のご本尊・大光普照十一面観音菩薩。願成就寺が創建される際、聖徳太子が1回彫るごとに3回礼拝して造立した観音さまと伝わる。通常49年に一度の御開帳とされているが、25年に一度、中開帳としてお姿が公開される。
本堂向かって右手の厨子の内部におまつりされている阿弥陀如来立像。この阿弥陀如来立像は南北朝時代に造立されたと考えられている仏さまで、明治時代までは日牟禮八幡宮の境内にておまつりされていた。江戸時代、付近の13の集落において病が流行した際、このお像の姿を掛け軸に写してそれぞれの集落で病の終息を祈願した。その結果、病が終息したという逸話がある。そのため、毎年4月8日に13の集落の代表者がそれぞれの集落におまつりされる阿弥陀さまの掛け軸をこのお像の前に持ち寄り、法要が行われる。なお、その際の形式は真宗の形式で法要が進められ、地域の祈りの場所としての願成就寺の姿を今に伝える。
ご本尊をおまつりする厨子の周囲には、東西南北の四方を守護する持国天立像、広目天立像、多聞天立像、増長天立像の四天王立像がおまつりされている。それぞれ刀などの武器を持ち、足元には邪気を踏みつけている勇ましい姿をしている。
本堂にはそれぞれ年齢の異なる聖徳太子像がおまつりされている。本堂正面左手におまつりされているお像は『南無太子像』と呼ばれ、聖徳太子が2歳の時、東の方向を向き合掌して『南無仏』と唱えたときの姿をあらわしている。このお像は南北朝時代に造立されたと考えられている。絵画として描かれている聖徳太子像は『孝養像』と呼ばれ、聖徳太子が16歳の時に父である用明天皇の看病をしている姿をあらわしている。聖徳太子が願成就寺を創建するだけでなく、願成就寺の創建の際に付近の地域に数珠と瓦の生産を伝えたという。これらの産業は現在も伝えられている。
本堂の隣にある護摩堂は、滋賀県内の天台宗寺院でも有数の護摩道場として知られている。護摩堂の中央には不動明王を中心に五大明王像がおまつりされている。毎年夏には、護摩堂にて祈願者の病を封じる『きゅうり封じ』の祈願が行われる。きゅうりに梵字などが墨書きされ、そのきゅうりを竹筒に封じるという祈願は願成就寺独特の伝統であるという。
地蔵堂の本尊であるお地蔵さまは『木ノ中地蔵』と呼ばれ、1本の霊木から3躯のお地蔵さまが造立され、そのうちの真ん中の部分から造立されたお地蔵さまであることから『木ノ中地蔵』と呼ばれるようになったという。なお、根本付近から彫られたお地蔵さまは『木ノ本地蔵』、先端から彫られたお地蔵さまは『木ノ末地蔵』と呼ばれ、滋賀県内の寺院におまつりされている。『木ノ中地蔵』は国の重要文化財に指定され、毎年9月23日に御開帳されている。
『木ノ中地蔵』の厨子の前にお前立として安置されるお地蔵さまは『満願寺地蔵』と呼ばれ、もともとは聖徳太子が創建した満願寺に伝わっていたお地蔵さまとされている。満願寺が廃寺になった際、願成就寺に移ってきたとされる。平安時代に造立されたと考えられている貴重なお地蔵さま。
地蔵堂にはお地蔵さまの化身とされる閻魔大王と亡者の服をはぎ取る奪衣婆がおまつりされる。ともに非常にユーモラスな表情を参拝者にむけている。
学生レポート

立命館大学生命科学研究科3年
ご由緒
推古天皇27年に推古天皇の勅願に従い聖徳太子により創建されたという。聖徳太子は近江の国に48か所の寺院建立を行うことを目標とし、願成就寺は最後の48か所目の寺院であった。そのため、無事に48か所の寺院が建立され、願いが成就したということから『願成就寺』と名付けられた。中世までには日牟禮八幡宮の別当寺となり、神仏習合の信仰が今でも色濃く伝えられている。
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