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ご由緒
貞観元年(859)、相応和尚が29歳の時、修行の地を求めて比叡山の無動寺谷より葛川地区に来訪し草庵を建てたことに始まるという。相応和尚は葛川の地主神である思古淵神のお告げにより三ノ滝にて7日間の修行を行い、7日目に不動明王を感得したという。その際、相応和尚が滝壺に現れた不動明王に抱きついたところ桂の霊木が残り、その霊木を使用して仏さまを造立し安置したという。毎年7月18日には、太鼓を使ってその様子を再現した「たいこ廻し」が行われる。
相応和尚の祈りを今に伝える
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かつらがわそくしょうみょうおういん
滋賀県大津市
明王院は、境内を構成する建物だけでなく全域が国の重要文化財に指定されています。この指定が物語るように、明王院の境内には1000年以上昔に相応和尚がこの地を訪れ修行をつとめてから連綿と祈りが伝えられています。境内より片道30分の山を進むと、相応和尚が不動明王を感得した場所である三ノ滝を訪れることができます。
明王院のご本尊は、中央に千手観音立像、左右に不動明王立像、毘沙門天立像を配置し、造立当初からこの3尊であったと考えられている。中央の手観音立像は全身に金箔を施した漆箔仕上げで、左右の不動明王立像と毘沙門天立像は造立当初に施された彩色の上に金箔を細く切って文様をあらわす截金(きりかね)が施されている。造立時期は平安時代末期頃の12世紀中ごろから後半にかけてと考えられている。千手観音立像は40本の腕と合掌する真手2本の合計42本の腕を持つ千手観音像である。毘沙門天立像は、手に宝塔を持たずに腰に手を添える立ち姿で、京都市鞍馬寺の毘沙門天立像と似た立ち姿をとる。不動明王立像は片目を細めている。3尊ともヒノキ材を用いた寄木造のお像である。造立様式や時代背景をもとに、当時天台宗の寺院を中心に活躍していた円派仏師による造立ではないかと指摘されている。観音菩薩を中心に左右に不動明王、毘沙門天を配置するいわゆる横川形式を示すお像のうち、比叡山周辺に伝わる最古級のお像として注目されている。通常は、比叡山国宝殿に安置されている。
明王院の本堂は建立時の棟札により正徳5年(1715)の建立されたことが判明している。桁行3間・梁間5間の入母屋造の建物で、西側に1間の唐破風の向拝(ごはい)を設けて入口としている。内部は外陣と内陣に分かれている。内陣天井には彩色された花々の天井絵が飾られている。近年の調査の結果、使用されている部材には約1000年以上昔に伐採された材木が使用されていることが判明し、現在の建物よりも前の建物に使用されていた部材が再利用されている可能性が指摘されている。
明王院には鎌倉時代から江戸時代に参籠した人々がのこした参籠札が大量に伝えられている。参籠札には「不動明王」などの仏の名前、日付、参籠した人の名前が記されている。国の重要文化財に指定されている参籠札は501枚あり、鎌倉時代の参籠札が6枚、南北朝時代の参籠札が4枚、室町時代の参籠札が54枚、桃山時代が4枚、江戸時代が433枚伝えられているという。形も様々で、五輪塔型のものや板碑型、祈祷札型など様々な形式の参籠札が伝えられている。参籠札をおさめた人物の中には、室町幕府3代将軍足利義満公や9代将軍足利義尚、その母である日野富子がいる。本堂内には、全長4メートル近くにもなる最大の参籠札が安置されている。
本堂の内陣長押に懸けられている懸仏は室町時代に奉納された懸仏で、6面が国の重要文化財に指定されている。6面のうち5面は不動明王立像・制多迦童子(せいたかどうじ)・矜羯羅童子(こんがらどうじ)が取りつけ、1面は岩座に立つ不動明王像を内部に安置する大きな宝塔を中央に付けている。6面とも木製の板に金銅製の板をはり、周縁には花形や三鈷杵の文様をあらわしている。裏面には墨書銘が記され、それぞれの懸仏が奉納された年号や奉納者が判明する。
明王院の境内を構成する参道や石垣など全域は国の重要文化財に指定されている。さらに境内に建つ護摩堂や庵室、政所表門も国の重要文化財に指定されている。護摩堂は桁行3間・梁間3間の宝形造の建物で内部に仏さまをおまつりする須弥壇を設ける。その隣に立つ庵室は、行者が参籠する際に使用する宿泊施設で、住宅風の建物である。それぞれ、宝暦5年(1755)、天保5年(1834)に建築された建物である。政所表門は棟札などの直接的な資料は確認されていないが、17世紀初頭に建てられた明王院に現存する最古の建物であると考えられている。
明王院の境内から山道を歩き約30分。相応和尚が7日間の荒行の後、不動明王を感得したという三ノ滝にたどりつく。相応和尚はこの三ノ滝において修行をつとめ、ついに不動明王を感得する。その喜びのあまり、相応和尚は滝壺に姿をあらわす不動明王に抱き着いたという。すると不動明王は一本の桂の老木に姿を変えた。相応和尚はこの霊木より不動明王像を造立・安置し明王院が誕生したという。毎年、比叡山の行者は三ノ滝において修行を行う。
たいこ廻しは、相応和尚が三ノ滝で不動明王の姿を感得した際の逸話に基づいた行事である。「場取り」と呼ばれる人々は人の背丈を超えるササラ竹を揺らし三ノ滝の轟音を再現し、体に響くほど重低音を奏でながらまわされる太鼓は滝壺の水の流れを再現しているという。行者は太鼓の上から床に飛び込み、相応和尚が滝壺に飛び込み感得した不動明王に抱き着いた逸話を再現する。たいこ廻しが終わると、行者により本堂において法要が執り行われる。毎年7月18日に本堂外陣にて執り行われるたいこ廻しの激しさを示す痕跡が本堂外陣の床に残る。
学生レポート
立命館大学生命科学研究科3年
ご由緒
貞観元年(859)、相応和尚が29歳の時、修行の地を求めて比叡山の無動寺谷より葛川地区に来訪し草庵を建てたことに始まるという。相応和尚は葛川の地主神である思古淵神のお告げにより三ノ滝にて7日間の修行を行い、7日目に不動明王を感得したという。その際、相応和尚が滝壺に現れた不動明王に抱きついたところ桂の霊木が残り、その霊木を使用して仏さまを造立し安置したという。毎年7月18日には、太鼓を使ってその様子を再現した「たいこ廻し」が行われる。
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