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ご由緒
施福寺に伝えられている『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、施福寺は欽明天皇の御代に、播磨国加古郡の行満上人により創建された古刹であり、槇尾山寺とも呼ばれていたという。
寺院の創建以前より槇尾山は霊地として知られており、奈良県の巻向山におわす航海の安全と戦勝を祈願する神である磐筒男神が当地に勧請されまつられたことから、「巻向山の神をまつる山(=尾)」として、古来は「巻尾山」の表記であったという。この勧請は、現在の奈良県から紀の川を通り大阪湾へ抜け、さらに加古川を通り分水嶺を越え日本海へ抜けて大陸まで続く古代の一大交通ルートの安全を祈願するためであったという。
9世紀前半頃にまとめられたとされる『日本霊異記』に記載のある「茅渟(ちぬ)の山寺」は施福寺のことであるとされ、槇尾山は古代より仏教が隆盛した霊山であった。役行者や行基菩薩、勤操、弘法大師空海が施福寺を訪れ修行に励んだと伝えられている。
中世には隆盛を極めたという。往時には70以上の坊が甍を並べ、多くの僧侶が修行に励んでいたという。天正9年(1581)、織田信長の兵による焼討ちにより全山焼失となったが、豊臣秀頼公により御本尊様をはじめと仏様や伽藍が復興された。江戸時代には徳川家と深い関係を有した。弘化2年(1845)、山火事により仁王門を残し伽藍は焼失してしまうが、御本尊様をはじめとする多くの仏様は助け出され、今日まで伝えられている。
西国三十三所巡礼第4番札所、和泉西国三十三箇所第1番札所、西国愛染十七霊場第15番札所、神仏霊場第52番札所として巡礼者が多く参詣に訪れる。
