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ご由緒
国分寺薬師堂は、天平13年(741)、聖武天皇によって発布された「国分寺建立の詔」により建立されたとされる出羽国分寺を起源に持つ。創建当初の出羽国分寺は日本海側に伽藍を構えていたが、人々の動きに合わせ内陸側へと移転を繰り返したという。
戦国時代から江戸時代初期にかけて当地を治めた最上義光公が山形城を整備する際、山形城の鬼門の方向である現在地に出羽国分寺を分祀したと記録に残され、柏山寺は国分寺薬師堂を管理する別当寺として歴史を伝えている。
出羽国分寺の祈りをつなぐ
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はくさんじこくぶんじやくしどう
山形県山形市
薬師堂は江戸時代に建立された巨大な建築を明治時代に移築した建物。技術の粋を集めて建立された建物の内部には、奈良時代より紡がれてきた祈りに満たされています。また、毎年5月に開催されている植木市は、400年以上の歴史を誇り日本三大植木市の一つにも数えられる日本有数の植木市です。
柏山寺の金堂である国分寺薬師堂は、奈良時代、聖武天皇の勅願により全国に建立された国分寺のうちの出羽国分寺の歴史を受け継ぐ祈りの地として信仰を集めている。
創建当時の出羽国分寺は、当時の遠方への重要な交通手段の一つである海上交通の便が良い、現在の山形県酒田市や遊佐町のあたりの日本海側に創建されたと考えられている。その後、内陸へと拡大する人々の動きとともに出羽国分寺も場所を移動していったと推測されている。
戦国時代から江戸時代初頭にかけて最上義光公が山形城を整備する際、義光公は霊山として知られていた立石寺がお城の丁度鬼門の方角に位置するように山形城を整備し、立石寺と山形城の間に位置する当地に、義光公を守護する寺院として由緒ある出羽国分寺を分祀したと記録に残るという。このとき、柏山寺が国分寺薬師堂の信仰をお守りする別当寺となり、今日まで歴史が紡がれている。
義光公が整備した江戸時代から明治時代にかけて、国分寺薬師堂は2度の大火に見舞われてしまった。現在の建物は、山形市内にかつて存在した真言宗の大寺院・寶幢寺(ほうどうじ)の本堂を明治45年(1912)に移築した建物である。この建物は、もともと江戸時代の文政年間(1818~1831)に建立された建物であり、内部に柱が少なく開放的な空間である点が特徴の建物。天井の上で組まれている2本の大きな梁が全ての荷重を支える役割を担っているため、このような開放的な内部空間が生み出されているという。
また、明治初頭、山形県会議事堂が完成するまでは仮議事堂として用いられていた歴史もある。このことから、柏山寺や県庁、県会議事堂などを含む山形市東部の広い部分が焼失してしまった明治44年の大火の後の臨時議会は、大火の翌年に移築された現在の建物で開かれたという。
堂内には、様々な仏様がおまつりされている。扉より入り最初に出会う仏様は仁王様。口を開く阿形像と口を閉じる吽形像がにらみを利かせている。内陣の大きな壇上には、秘仏御本尊様を中心に、不動明王様や地蔵菩薩様、観音菩薩様など様々な仏様がおまつりされている。
堂内中央の厨子の内部には、国分寺薬師堂の秘仏御本尊である薬師如来様がおまつりされている。御開帳の年月が定められておらず、どのようなお姿をされている薬師如来様がおまつりされているか等、謎が多い仏様である。
厨子の前面には、前仏である薬師三尊像がおまつりされている。中央に座ったお姿の薬師如来様、両脇に日光菩薩様と月光菩薩様をおまつりしている。さらに、その左右には不動明王様と毘沙門天様をおまつりしている。
御本尊様の左右には、薬師如来様の眷属である十二神将様がおまつりされている。それぞれ甲冑を身に着け、剣や戟などの武具を持つ。頭上には対応する干支の姿を乗せる。江戸時代中期頃に造立されたお像であるという。
国分寺薬師堂の十二神将様は、頭上の一部を除きお体が黒く塗られている。これは、大火の際に裏の池の水中に沈めたために彩色が取れてしまったためであるという。
薬師堂内、向かって右の壇におまつりされている坐像の仏様は、「ころり観音」と呼ばれ親しまれている観音菩薩様。山形市内に伽藍を構える天台宗の古刹・風立寺におまつりされている霊験あらたかなころり観音様を模したお像である。
今から30年くらい前、「風立寺までお参りすることが難しい」という声をいただき、造立した仏様である。
国分寺薬師堂が建つ地は「薬師公園(千歳公園)」としても親しまれている。境内には、樹齢数十年以上のケヤキの大木が枝を広げている。毎年5月8日・9日・10日には、日本三大植木市の一つに数えられている「薬師祭植木市」が開催されている。この「薬師祭植木市」は最上義光公が大火で焼失した城下に緑を取り戻そうと呼びかけ始まったとされ400年以上の歴史を誇り、お釈迦様の誕生を祝う「花まつり(灌仏会)」と一体となって親しまれてきた行事であるという。
境内には、国分寺薬師堂や山形の歴史を伝える様々な石碑が建立されている。薬師堂の近くに建つ「戦没者慰霊碑」と揮毫された巨大な石碑は、昭和14年(1939)に雪国である青森・岩手・秋田・山形の人々から結成され、大陸や南方の地で戦った「雪部隊」の人々を弔う石碑である。石碑の裏側には、山形県知事を務めた板垣清一郎氏による碑文が刻まれている。他にも松尾芭蕉の句碑や西園寺公望により記された明治大学の創設者の一人である宮城浩蔵(1852 - 1893)の追悼碑、種痘を広めた長沢理玄(1815 - 1863)の顕彰碑など様々な石碑が伝えられている。
薬師堂の背後には、豊かな水をたたえる弁天池が伝えられている。この弁天池は、初代山形県県令を務めた三島通庸が整備した千歳公園を構成する庭園の一部であるという。
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立命館大学 3年
ご由緒
国分寺薬師堂は、天平13年(741)、聖武天皇によって発布された「国分寺建立の詔」により建立されたとされる出羽国分寺を起源に持つ。創建当初の出羽国分寺は日本海側に伽藍を構えていたが、人々の動きに合わせ内陸側へと移転を繰り返したという。
戦国時代から江戸時代初期にかけて当地を治めた最上義光公が山形城を整備する際、山形城の鬼門の方向である現在地に出羽国分寺を分祀したと記録に残され、柏山寺は国分寺薬師堂を管理する別当寺として歴史を伝えている。
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