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ご由緒
慈恵大師の弟子である内供奉・慶芳上人が諸国を巡錫していた正暦2年(991)3月8日、田原の郷に存在していた辻川有井堂にて文殊菩薩のお告げとその守護を得て、一条天皇の勅により薬師如来を本尊として創建された。その後、近衛天皇の宣旨により播磨六山の1つとなり、大いに隆盛したという。延慶2年(1309)に伽藍が焼失してしまうも復興が続き、現在の伽藍は天正15年(1588)有馬法師の寄進により再建された。
800年以上地域の人々とともに行事を守り伝える古刹
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じんしゃくじ
兵庫県神崎郡福崎町
ご本尊である薬師如来坐像だけでなく、本堂には様々な仏さまがおまつりされています。また、神積寺を代表する追儺式は鎌倉時代の創立より鬼子と呼ばれる地域の人々の手により伝えられてきました。現在も鬼子の人々により行われている追儺式は必見です。
神積寺のご本尊は薬師如来坐像である。比叡山を中興した第18代天台座主慈恵大師良源の弟子であった慶芳上人(けいほうしょうにん)が諸国を巡礼していた際、この土地の近くで文殊菩薩があらわれ『東の方向に薬師如来をおまつるするように』とお告げをした。その際に造立された薬師如来坐像であると伝えられている。平安時代に造立された仏さまと考えらえており、国の重要文化財に指定されている。60年に一度御開帳されている秘仏とされており、平成26年の御開帳の際にはたくさんの参拝者が訪れた。
神積寺の中央に建つ本堂は、天正15年(1588)有馬法師の寄進により再建された建物である。建物内は外陣と内陣に分けられ、外陣の屋根裏には御開帳の際に使用された角塔婆が置かれている。本堂の部材には様々な精緻な彫刻で彩られている。本堂の内陣の右奥には火をおこす炉がある部屋があり、追儺式ではそこで松明に火がつけられ本堂内の壁や柱に松明をたたきつける。そのため、本堂にはその焦げ跡が無数につけられている。
文殊菩薩騎獅像は本堂内部の須弥壇左側におまつりされている。角ばったお顔や体躯・衣文の様子、寄木造で体部前面の部材の地付部に像心束(ぞうしんづか)を彫り残していることから、南北朝時代~室町時代にかけての院派仏師によるお像であると考えられている。当初は神積寺の鎮守社である岩尾神社におまつりされていたが、明治の神仏分離により神積寺にておまつりされるようになった。獅子の台座も含めて当初の部分を多く残されていると考えられ、福崎町指定の文化財に指定されている。
阿弥陀如来坐像は本堂の須弥壇右手側におまつりされる。近年修復が行われた際の調査では平安時代中期(10世紀)に造立されたことが考えられている。膝部を含めた一木造で内刳はなく、厚く量感のある体部をしている。両手先は江戸時代の後補であるが腕の部分は膝部と同材であることから、定印を結ぶ阿弥陀如来の古例の一つとして貴重である。神積寺では、追儺式に携わる13の家の人々である「鬼子(おにこ)」の回向の本尊としてまつられてきた。そのため、追儺式の最初にこの本尊に対し「鬼子」の人々の回向法要が行われるという。
本堂の須弥壇上の厨子の左右には日光菩薩立像、月光菩薩立像、十二神将立像、僧形坐像がおまつりされている。それぞれのお像の造立時代は不明であるという。僧形坐像はびんずる尊者としておまつりされ、参拝者の方々に撫で仏として親しまれていたという。通常のびんずる尊者とお姿が異なることから開山の慶芳上人や他の高僧の肖像ではないかと指摘されている。また、厨子の前にはお前立の薬師如来坐像、厨子の左右には文殊菩薩像と毘沙門天像が脇侍としておまつりされている。
神積寺参道の入口に建てられている仁王門は江戸時代頃に造立されたと考えられており、両脇に仁王像がおまつりされ参拝者ににらみをきかせている。仁王門から参道を進むと、池の中の小島に弁天堂が建てられている。この弁天堂は天保7年(1836)12月に吉田村、田尻村の大工によって建てられた。弁天堂内部には江戸時代に造立されたと考えられている弁財天像と十五童子像がおまつりされている。弁天堂より参道を進むと、本堂の前に一対の石灯籠が設置されている。この石灯籠には北山田村(現姫路市)の助左衛門が両親の菩提を弔うために、天和3年(1683)に寄進したことが銘文として刻まれている。このことから福崎町の文化財に指定されている。また、参道の石段は助左衛門とその子孫により寄進された。石灯籠の近くには寛文3年(1663)に建立された鐘楼が伝えられている。本堂の北東方向に奥の院と呼ばれる建物が建てられている。奥の院には神積寺を開いた慶芳上人がおまつりされている。
本堂の背後の妙徳山には西国三十三カ所を模した巡礼道が整備されている。それぞれの札所の観音さまを模した石仏がおまつりされ、豊かな自然を楽しみながら巡礼することができる。また、巡礼道の最初には役行者をおまつりする行者堂が建てられている。
参道から東に進むと古墳時代後期に築かれた妙徳山古墳が見えてくる。この古墳は円墳で、直径20メートル、高さ3メートル、南側に玄室への入口が開かれている。玄室の内部に入ると人の背丈の数倍以上の空間が広がっている。内部から遺物は発見されておらず、被葬者の詳しいことは判明していない。
参道脇にある阿弥陀種字板碑は高さ194センチ、幅82センチ、厚さ18センチにもなる巨大な板碑である。この板碑は神積寺に滞在した後堀河天皇の中宮・安喜門院の百箇日供養に伴い造立された板碑である。正面中央には、阿弥陀如来をあらわす種字を刻み、下方に造立の由来を示す銘文が刻まれている。
参道沿いにある悟真院は、神積寺を構成する子院の一つである。祈願をする場所である本堂とは異なり、檀家さんの回向を行うための祈りの場所である。中央には薬師三尊像、その脇には善光寺式阿弥陀如来像、左の壇には香川の妙法寺に伝わる降魔大師をもとに松本明観師が造立した降魔大師像が、右の壇には福崎町の文化財に指定されている石造宝塔残欠がおまつりされている。石造宝塔残欠は基礎の部分と塔身のみが残る石造宝塔で、塔身に阿弥陀如来と思われる仏像が彫られている。火災の際に燃えてしまい一時バラバラとなってしまったが、火災前の姿に修復された。悟真院の境内には西村公朝師による「ふれ愛観音」をまつる「ふれ愛観音堂」のほか、入口には福崎町指定文化財である唐門が建てられている。近年再建され多様な人々が訪れやすいようにバリアフリーに配慮された建物に生まれ変わり、コスプレ撮影会など多様な催しが開催されている。
神積寺では、1月の成人の日に追儺式、3月の春分の日に文殊会式が執り行われる。追儺式は鬼追式と呼ばれ、神積寺の本尊薬師如来の使者である「山の神」と家来で文殊菩薩をあらわす「青鬼」、毘沙門天をあらわす「赤鬼」という3種類の鬼が本堂の炉から松明に火をともし本堂を練り歩き邪気を払う所作を行う。鎌倉時代より始まり、天皇陛下の使いである勅使を迎える法要であった。鎌倉時代の創始から現在に至るまで「鬼子」と呼ばれる13の家からなる地域の人々により伝えられている。3月の文殊会式は文殊菩薩を称える法要であり、文殊会式にも勅使が派遣されていたと伝わる。現在は法華八講法要を行っている。
学生レポート

立命館大学生命科学研究科3年
ご由緒
慈恵大師の弟子である内供奉・慶芳上人が諸国を巡錫していた正暦2年(991)3月8日、田原の郷に存在していた辻川有井堂にて文殊菩薩のお告げとその守護を得て、一条天皇の勅により薬師如来を本尊として創建された。その後、近衛天皇の宣旨により播磨六山の1つとなり、大いに隆盛したという。延慶2年(1309)に伽藍が焼失してしまうも復興が続き、現在の伽藍は天正15年(1588)有馬法師の寄進により再建された。
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