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ご由緒
播磨天台六山の一つで、史料では増井寺とも記されている。高麗の僧である慧便が開基し、天平年間に行基が中興し現在地へ移転したと伝わる。もとは法相宗であったが天長十年(833)に仁明天皇の勅命で天台宗に転じた。平安時代には諸堂が整備され、山上には三十六坊もある大寺であったという。天正元年(1573)、別所長治に攻められ全山を焼失。同一三年に羽柴秀吉が再興した。江戸時代、姫路藩主榊原忠次が当寺を菩提寺とし、再建・整備に尽力したという。
姫路城主が整備した雄大な伽藍が山上に広がる
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ずいがんじ
兵庫県姫路市
姫路の市街地にも近い随願寺には、姫路藩主との関わりが深い文化財が多く残されています。 山上に広がる境内には、随願寺を現在地へ移した行基菩薩以来、約1200年の祈りの歴史を伝える仏様や文化財が伝えられています。
随願寺の伽藍の中心となる本堂は、江戸時代に建立された建物。大鬼瓦に元禄5年(1692)の銘文が刻まれていることから、この年号までには建てられていた建物であり、桁行七間・梁間六間の建物である。本堂は外陣と内陣に分けられ、外陣には、狩野探幽筆と伝えられている迦陵頻伽や龍の天井絵が残されている。内陣中央には、牡丹獅子や羅漢、昇龍・降龍などの精緻な彫刻が施された巨大な厨子がおさめられている。戦前までは精緻な彫刻が施された金具も施されていたが、太平洋戦争中の金属供出によって一部を残して外されてしまったという。平成21年(2006)、境内の諸堂とともに国の重要文化財に指定された。
本堂内の厨子の内部には、3躯の仏様がおまつりされている。中央にご本尊である木造薬師如来坐像、向かって右側に木造聖観音立像、向かって左側に木造千手観音立像がおまつりされている。江戸時代の本堂建立当初は、聖観音菩薩立像の位置に毘沙門天立像がおまつりされていた。 ご本尊様は、半丈六(約1.4メートル)の坐像で、藤原期に造立されたと考えられている仏様。 両脇にまつられている木造聖観音菩薩立像と木造千手観音立像は、もともと境内の諸堂の本尊であったと考えられている仏様。千手観音立像は現在の本堂が建立された際、聖観音様はもともと厨子内におまつりされていた毘沙門天立像が収蔵庫へ移された際に本堂へ移されたという。 通常は厨子の扉は閉められているが、毎年2月11日に御開帳されている。
ご本尊様をまつる厨子の左右には、薬師如来の脇侍と眷属である日光菩薩立像・月光菩薩立像・十二神将立像がまつられている。いずれも南北朝時代に造立されたと考えらえている仏様。十二神将立像の頭上には十二支を表す動物が表現されている 脇壇には、白象の台座に乗る普賢菩薩坐像と童子像が共にまつられている。普賢菩薩坐像は、中世に造立された仏様であるという。童子立像は、もともと経堂におまつりされていたお像で、回転式書架である輪蔵を発明した傅大士(ふだいし)像の脇を固める童子像であったと考えられている。
収蔵庫でおまつりされている毘沙門天立像は、平安時代中期頃に造立された仏様であると考えられている。ヒノキを用いた一木造で、右手に宝棒を持ち、左手を腰に添え、右斜め前を見据えている。正暦2年(991)、性空上人を招き随願寺大講堂の落慶供養が行われたことが史料に記されており、毘沙門天立像の造立と大講堂の再建との関連が示唆されている。 毎年2月11日に御開帳されている。
収蔵庫におまつりされている地蔵菩薩立像は、康安2年(1362)に康成と円賢によって造立されたことが近年の調査により判明した。また、お像に記された銘文により、中世の奈良で行われていた仏事である「中御門逆修(なかみかどぎゃくしゅ)」によって造立された地蔵菩薩像であると考えられている。中御門逆修とは、現在の奈良市中御門町に存在していたとされる興福寺の子院・逆修坊を中心に毎年行われた仏事で、3月8日から3月15日までの8日間、多くの結縁者を募り1体の地蔵菩薩像を造立していたという。 毘沙門天立像とともに毎年2月11日に御開帳されている。
本堂の西側には、朱色の唐門が建つ榊原忠次公の墓所が建立されている。 墓所の正面に建つ唐門は、瓦の銘文から享保16年(1731)に建立された建物であることが判明し、随願寺の諸堂とともに国の重要文化財に指定されている。 唐門の奥は、石柵に囲まれた忠次公の墓域となる。手前に儒学者・林鷲峰が忠次公や榊原家について記した石碑が、奥に巨大な五輪塔が建てられている。いずれも随願寺が建つ増位山以外から切り出された石材を使用しているという。石碑に記されている三千文字にもなる碑文を間違えずに全て暗唱すると、石碑の亀が動き、内部から財宝が出現すると伝えられている。
境内の西に建つ開山堂は、建物の部材に承応3年(1654)と寛永18年(1641)の墨書が発見されたことから、境内に残る最古の建物とされている。諸堂とともに国の重要文化財に指定されている。 内部の厨子には、随願寺を当地に移したとされる行基菩薩坐像をおまつりしている。室町時代に造立された寄木造のお像。江戸時代後期以降に胡粉地の彩色が施されたという。行基菩薩坐像は姫路市の文化財に指定されている。
経堂は宝暦年間に建立されたとされる建物で、撞木造(しゅもくづくり)という珍しい構成の建物である。建物の後方部分の正堂内部は磚(せん)が敷かれていることが特徴。 鐘楼は享保3年(1718)に建立された建物。本瓦葺、入母屋造で建てられている腰袴付鐘楼である。組物が二手先とする点が特徴的であるという。
毎年2月11日、本堂において修正会追儺会が執り行われる。修正会追儺会は鬼追いと呼ばれ、毘沙門天の化身である赤鬼と薬師如来の化身である空鬼、不動明王の化身である青鬼が登場する。それぞれの鬼は松明を持ち、それぞれの松明をぶつけ合い舞う。本堂にはその際の火の粉の痕跡が残されている。修正会追儺会の際は、虚無僧保存会による献奏や採燈大護摩、火渡りの儀式が行われ、多くの参拝者が訪れる。
随願寺が伽藍を構える増位山は、豊かな自然に彩られる。ヤマガラやモリアオガエルなど様々な生物が生息し、豊かな生態系を築いている。
学生レポート

京都大学大学院文学研究科修士2年
学生レポート

立命館大学 博士課程
ご由緒
播磨天台六山の一つで、史料では増井寺とも記されている。高麗の僧である慧便が開基し、天平年間に行基が中興し現在地へ移転したと伝わる。もとは法相宗であったが天長十年(833)に仁明天皇の勅命で天台宗に転じた。平安時代には諸堂が整備され、山上には三十六坊もある大寺であったという。天正元年(1573)、別所長治に攻められ全山を焼失。同一三年に羽柴秀吉が再興した。江戸時代、姫路藩主榊原忠次が当寺を菩提寺とし、再建・整備に尽力したという。
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