history
ご由緒
慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大伴古麿が薬師如来像を本尊として開いたという。平安時代には、お寺がある地域の郡司である宇治宮成により聖観音菩薩が安置され、聖観音像と宇治宮成との逸話により『身代わり観音』として大いに信仰を集めた。近畿一帯に広がる観音霊場である西国三十三カ所の第21番札所として多くの参拝者が訪れる。
仏さまと参詣者の距離が近い観音さまの霊場
いいね
0
あなおじ
京都府亀岡市
西国三十三カ所の札所本尊である聖観音さまをはじめ絶対秘仏の薬師如来さま、明治時代に発見された等身大の涅槃像など様々な仏さまがおまつりされています。また京都府の名勝に指定されている庭園は、境内の建物を借景としており雄大な景色を楽しむことができます。
穴太寺のご本尊は慶雲2年(705)に大伴古麿により安置されたという薬師如来像である。本堂の中央に並ぶ3つの厨子のうち中央の厨子の内部に安置されているという。ご本尊の薬師如来像は絶対秘仏とされ、創建以来御開帳されたことはないという。しかしながら明治時代、岡倉天心とフェノロサを中心に実施された文化財調査の際に扉が開かれたと伝えられている。その際、2体の薬師如来像がおまつりされ、どちらも坐像であったという。
本堂の内部に3つの厨子のうち、向かって左手の厨子の内部には西国三十三カ所の札所本尊である聖観音菩薩立像がおまつりされている。この聖観音立像には平安時代にこの地域を治めていた宇治宮成との逸話が残る。平安時代、この地方を治める宇治宮成は貪欲であった。その姿を見かねた信心深い妻の勧めにより都から仏師を招き聖観音立像を造立した。宇治宮成はその褒美として自らの愛馬を仏師に贈ったが、愛馬を渡したことを後悔し、都へ帰る仏師を殺害して愛馬を奪ってしまった。その後、家に帰ると体に矢が刺さり血を流す観音立像が宇治宮成を出迎える。その姿に驚いた宇治宮成は仏師に連絡をとると、無事に都に帰り元気にしていたという。このことから聖観音立像は「身代わり観音」と呼ばれ、大いに信仰をあつめた。このことから観音さまの霊場を巡る西国三十三カ所の札所の一つとなっている。また、向かって右側の厨子の内部にはお前立の聖観音立像がおまつりされ、その前には宇治宮成とその妻のお像がおまつりされている。
本堂の天井を見上げると、色鮮やかな天井絵が描かれていることに気が付く。この天井画は宝暦2年に狩野幸信という狩野派の絵師により描かれたと伝わる天井絵である。極彩色で描かれている草花のほか、「さるかに合戦」の一場面を描いたものなどユーモアに富んだ絵も描かれている。天井絵の一部には、狩野幸信の名前や絵を依頼した施主の名前が記されている。
本堂の右手には、鎌倉時代に造立されたと考えられている釈迦涅槃像がおまつりされている。この釈迦涅槃像はその存在を忘れられていたが、明治29年(1896)、当時の穴太寺住職と孫娘の病気平癒のために穴太寺に通っていた信者の夢にお告げがあり、そのお告げの通り捜索すると本堂の天井裏から発見されたという逸話が残る。その後、この釈迦涅槃像に祈ると孫娘の病気はたちまち快復したことから、自分の悪い部分をなでるとたちまち快復するという信仰が今に伝えられている。現在も釈迦涅槃像には多く寄進がされ、かけられている布団は季節ごとに変えられている。
本堂の西方に建つ建物は「円応院」と呼ばれている、江戸時代に穴太寺が再興された延宝5年(1677)に建立された建物である。建物内の欄間や設えには精密な装飾が施され、古さと質の良さで丹波地方を代表する方丈建築の一つとされる。また、建物の南面に広がる庭園は、江戸時代に作庭されたと考えられている庭園で、多宝塔などの境内の建造物を借景として取り入れ、その景色を中心に築山や樹木を配置している。また、多宝塔の方向よりこちら側に向かってくる舟を示す岩が池に配置されるなど細部まで計算されている名庭園である。
境内の西方には、文化元年(1804)に再建された多宝塔が建てられている。三間の多宝塔で石積みの基壇上に建っている。下重は二軒繁垂木、上重は二軒扇垂木として変化をもたせている。さらに東西南北の四方にそれぞれの方角をつかさどる四神の彫刻がはめられている。内部には須弥壇上に釈迦如来坐像と多宝如来坐像をおまつりしている。亀岡市唯一の木造塔として知られている。多宝塔の右手には、西国札所の全札所の観音さまをおまつりする三十三所観音堂が、そのさらに右手には巡礼の札をおさめる納札所が建てられている。三十三所観音堂にはすべての札所のお砂がおさめられており、この堂をお参りすれば全ての札所を巡ったことと同じ功徳が得られると伝えられている。納札所には古いものでは江戸時代の納札が打ち付けられている。
本堂の東方には、念仏堂と呼ばれる宝永2年(1705)に建てられた寄棟造の建物が建てられている。この念仏堂は江戸時代の中興から数えて2代目の禅海により造立されたという念仏道場である。禅海は宗派を問わずこの地域一帯に念仏を広めたため、天台宗以外の地域の人々の回向の場所でもあり、古い位牌が多数おまつりされている。堂内には阿弥陀如来坐像がおまつりされている。この阿弥陀如来坐像は、頭部が鎌倉時代に造立されたと考えられている仏さまである。念仏堂の近くには地蔵菩薩立像をおまつりする地蔵堂と札所本尊である聖観音立像とゆかりのある宇治宮成の墓所が築かれている。
穴太寺の入口に立つ仁王門は三間一戸の八脚門である。建物の様式より17世紀中期頃の建立と考えられているが、柱には改造された痕跡が多数残されており、延宝4年(1676)に狩野永納が描いた縁起絵巻にある楼門の部材を再利用して建てられたのではないかと推測されている。また、付近には宝暦9年(1759)に建立された鐘楼や菅原道真公をまつる鎮守社と稲荷社が建てられている。
学生レポート

立命館大学生命科学研究科3年
ご由緒
慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大伴古麿が薬師如来像を本尊として開いたという。平安時代には、お寺がある地域の郡司である宇治宮成により聖観音菩薩が安置され、聖観音像と宇治宮成との逸話により『身代わり観音』として大いに信仰を集めた。近畿一帯に広がる観音霊場である西国三十三カ所の第21番札所として多くの参拝者が訪れる。
参拝情報