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ご由緒
696年、役行者が葛城山で修業中五色の彩雲がたなびいていたこの場所で毘沙門天を感得し、像を刻み安置したことにはじまる。その後、770年頃、光仁天皇第一皇子である開成阿闍梨が役行者の徳を慕い伽藍を整備したという。1582年には山崎の合戦に巻き込まれ焼失してしまうが、1603年7月に豊臣秀頼公により伽藍が再建された。さらに1697年、五代将軍徳川綱吉公の生母・桂昌院により大改修がおこなわれた。
深山に伽藍を構える毘沙門天王の霊地
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ほんざんじ
大阪府高槻市
桂昌院により整備されたという本堂に足を踏み入れると、仏さまの世界が広がっています。それぞれの仏さまに人々との関わりを示す様々な逸話が残り、たくさんの人々の拠所であることが感じられます。
境内の中央に建つ本堂は1603年に豊臣秀頼公により建立され、1697年徳川綱吉公の生母である桂昌院により大改修がされた建物である。本堂内、中央奥にはご本尊である毘沙門天王がおまつりされる。ご本尊は役行者により彫刻されたと伝わるお像である。ご本尊の両脇には吉祥天女と善膩師童子が侍する。本山寺の本堂が焼失した山崎の合戦の際、当時の住職が首から上だけをお寺の外に持ち出して避難し、頭部のみ戦火を免れた。その後、兵火を逃れた頭部と後の時代に造立された胴体を組み合わせて今のお姿になったという。戦前の法律では国宝に、戦後の法律で国の重要文化財に指定されている。ご本尊・毘沙門天立像は毎年1月3日午前四時に執り行われる初寅会修正会や5月の第2日曜日の宇賀神弁財天法要、11月第2日曜日の大般若転読会の年に三回のみ御開帳される秘仏である。初寅会修正会では毘沙門天秘密供が修せられ、牛玉宝印加持の際に参拝者の頭上に牛玉宝印が刻まれた版木を授けるという。また本山寺には、『本山寺略縁起』において役行者がご本尊・毘沙門天立像を刻む際に余った材で彫られたとされる牛玉宝印版木が伝えられている。
本堂中央の厨子の内部には兜跋毘沙門天王がおまつりされている。通常の毘沙門天像は邪鬼をふみつける姿をしているが、このお像は毘沙門天王の足元を地天女が支えている。身にまとう鎧の様式も中国の鎧の形式になっていると伝わる。また、兜跋毘沙門天像がおまつりされる厨子は徳川家の援助により造立されたとされ、徳川家の家紋が描かれている。
大日如来如来坐像は本堂内部左側の壇におまつりされる。智拳印を結ぶ金剛界の大日如来をあらわし、ヒノキ材から造立された一木造の仏さまである。大日如来坐像は平安時代初期に造立されたと伝えられているが、今日までに様々な修復が行われたため当初のお姿がどれほど残されているか不明であるそうだが、頭頂部から胸にかけて当初の部分であると考えられている。頭頂部には所々に螺髪を貼り付けた痕跡が残っている。しかしながら、大日如来坐像背後の緻密な文様が描かれている光背は当初のものと伝えられ、現在の彩色の下には造立当初の文様が残されていることが調査により判明し、平安時代の遺風を今に伝えている。かつては山の麓の川久保の集落にあった円長寺に安置されていたが廃寺になったため、昭和に比叡山の大講堂が焼失した際に新たな大講堂の本尊として比叡山にお移りするお話もあったが、地元の人々の声を尊重し本山寺に安置されているという。
本堂内部左側の壇の厨子内部におまつりされる不動明王立像。平安時代に造立された仏さまで本山寺には智証大師円珍により造立された不動明王像と伝えられている。もともと厨子の扉を閉じておまつりされていたため、平安時代当初の彩色が残されている。不動明王像の前には護摩壇が設けられており、年に2回護摩がたかれる。その際用いられる護摩壇の側面には大根の絵が描かれている。大根は聖天さまに対する供物であるため、右側の壇におまつりされる聖天さまに対する祈願で用いられていた可能性がある。
本堂内部の右側の壇の厨子の内部におまつりされる宇賀神王像。頭部は老翁で身体はとぐろを巻いた蛇のお姿をしている。そのため、大量の卵の御供えが寄進されるという。宇賀神王は水の神である宇賀弁才天の頭の上におられる神様で、中世以降に多くの信仰を集めた。本山寺の宇賀神王像は能面を彫っていた職人の手で作られたと考えられている。宇賀神王像の代表として多くの展覧会に出張され、天皇陛下が水に関する研究発表をされる際の資料に掲載されたこともある。
本堂内部右手側の厨子の内部に刀八毘沙門天像はおまつりされる。獅子に乗り、8本の腕にはすべてに刀が握られていることから『刀八』と呼ばれ、その姿から戦国時代に戦勝を祈願する仏さまとして大いに信仰を集めたという。
本堂の右手に建つ土蔵造の建物は開山堂である。内部には役行者がおまつりされている。役行者の脇には役行者が従えていたという前鬼・後鬼像が安置され、山岳霊場の聖地として信仰を集めた本山寺の歴史を今に伝える。また、役行者像の隣には孔雀明王像や本山寺を整備した開成皇子像がおまつりされている。
皇室や将軍、武将など様々な人々から信仰を集めた本山寺には数多くの文化財が今に伝わっている。その代表例として、室町幕府8代将軍である足利義政公が使用したと伝わる硯が、松永久秀公により奉納されている。鴨緑江の支流の渭原江の川底より採取した石である『渭原石』より制作された硯で、墨を磨る墨堂と墨汁をためておく墨池を太陽と三日月に見立てている。周囲にはブドウの蔓がめぐり、バッタやカエル、リスなど様々な生き物が立体的に彫刻されている。
本山寺の入口近くの覆屋の内部に宝篋印塔がまつられている。この宝篋印塔の隣のお社は『福塚大明神』と称され、本山寺のご本尊・毘沙門天王に対して篤い信仰を抱いた女性の逸話が残されている。宝永年間(1704 - 1709)、本山寺の麓の集落に『福久(ふく)』という名の女性が貧しい暮らしをしていたという。この暮らしが少しでも改善しますようにと本山寺の毘沙門天に祈ったところ、本山寺の境内からたくさんの財宝を得て暮らしが豊かになったという。その後、時は流れ大正時代になると、女性が財宝を得た場所はわからなくなっていたが、福久と名乗る者からのおつげが参拝者にあり、境内一帯を探したところ再発見されたという。
木々の間に塀を伴う門が建てられている。この門は中の門と呼ばれ、慶長8年(1603)、豊臣秀頼公によって伏見城から移築された建物であると伝わる。近年修復がされたという。中の門をくぐり歩みを進めると、江戸時代に建立されたという鐘楼にたどりつく。
学生レポート
立命館大学生命科学研究科3年
ご由緒
696年、役行者が葛城山で修業中五色の彩雲がたなびいていたこの場所で毘沙門天を感得し、像を刻み安置したことにはじまる。その後、770年頃、光仁天皇第一皇子である開成阿闍梨が役行者の徳を慕い伽藍を整備したという。1582年には山崎の合戦に巻き込まれ焼失してしまうが、1603年7月に豊臣秀頼公により伽藍が再建された。さらに1697年、五代将軍徳川綱吉公の生母・桂昌院により大改修がおこなわれた。
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