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関東における天台宗の中心的な修行道場の一つ

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せんぷくじ

泉福寺

埼玉県桶川市

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埼玉県桶川市の荒川河川敷に位置する泉福寺は、慈覚大師円仁によって開山された歴史ある寺院です。鎌倉時代に中興された泉福寺は、関東における天台宗の修行道場として栄え、東の比叡山という意味の東叡山という山号を持つお寺です。鎌倉時代には、この地から多くの僧侶が生まれ各地に羽ばたいていき、日本の信仰や文化に大きな影響を及ぼしました。

巡りポイント

泉福寺は、東の比叡山という意味をもつ東叡山の山号の寺院で、このお寺から多くの僧侶を輩出してきました。格式の高い形式で建てられている本堂からは、関東における天台宗の中心であったことを感じられます。

本堂

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檀家さんの積極的なご尽力によって修復された江戸時代に建立された大堂

本堂は宝暦二年(1753)に再建されたと伝えらるお堂である。本堂の向かって右手に護摩壇がある。本来であれば一つの本堂の中で滅罪と祈願を一緒に行うことは本当はできないが、このお堂では御修法等の格式のある護摩を焚きながら法要を行う儀式が許されているため、このような形となっている。大正時代にお堂を茅葺きから瓦葺きに変える際、むき出しで工事を行ったためシミができていた。それを金剛組に修理を依頼して、きれいな状態になっている。この本堂を修復の際修理のお金を募ると、総代さん含め55人のみなさんが檀家さんを回ってお金を集めてくださり、本堂に加えてほかのお堂等も修理することができた。檀家の皆さまのおかげで今の姿の本堂がある。本堂中央には泉福寺の本尊である地蔵菩薩像がおまつりされている。秘仏であるため、厨子の扉は閉められている。また、向かって右手側には、かつて身分の高い客人が泉福寺を訪れた際に使用した部屋が設えてあり、往時の泉福寺の繁栄を物語っている。さらに、本堂内には泉福寺の住職が川越の喜多院に赴く際に使用した駕籠の実物が展示されている。

感想■堂々としている姿がかっこよく、内部も綺麗な本堂が江戸時代に建てられた建物であることをお聞き、驚きました。丁寧な修復が行われることで、見違えるようにきれいになり、今までの信仰と共に後世に受け継がれていくのだと感じました。建物を構築する組物や欄間の彫刻一つ一つが迫力のある姿で、圧倒されてしばらく言葉を失いました。加えて、一つのお堂の中で滅罪と祈願を一緒に行うことのできるという話を聞き、泉福寺の格式の高さを実感することができました。

木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)

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弘長2年(1262)の銘を持つ阿弥陀如来像

泉福寺阿弥陀堂本尊である阿弥陀如来坐像である。現在は、収蔵庫におさめられている。像内背面に弘長二年(1262)四月に藤原・橘・平姓の女性とその子孫たちが発願しできたものであることが分かる。像容は平安時代の色を強く残しながら、髪際を波型に表す点やはりのある体躯等からは鎌倉時代の特徴がみられる像であり、平安時代の様式に基づき造像活動を行っていた保守的な仏師の作であったと考えられる。両脇には、観音菩薩像や勢至菩薩像、毘沙門天像、不動明王像がおまつりされている。

感想■阿弥陀如来坐像は柔らかそうな衣や柔らかそうな頬、穏やかそうな表情からは、優しさを感じられるとともに、豊満な肉付きの体部からは、力強さも感じさせる像でした。発願者や造像年もわかる像で、それぞれの人々の願いが今にもお像という形として伝わってくるようでした。

阿弥陀堂

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かつて阿弥陀さまがまつられていた建物を雄大な龍が守る

阿弥陀堂は安永二年(1773)に再建されており、欄間の透かし彫りの後ろには天明四年(1784)に彫られたとの銘が残されている。 泉福寺の前にホンダエアポートという軽飛行機の飛行場があり、この飛行場はかつては桶川飛行学校という陸軍の施設であった。戦時中はこの阿弥陀堂の中で、兵隊の方々が寝泊まりしていることもあった。堂内中央には、現在収蔵庫に移されている阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)がまつられていた。

感想■阿弥陀堂は内陣、外陣の様々なところに彫刻が施されていて、その細かな造りに感銘を受けました。江戸時代の人々の、阿弥陀如来坐像を丁寧にまつり、信仰していこうという篤い思いを感じることができるようでした。また外陣の天井には墨一色で迫力ある龍の天井絵が描かれており、悪い存在が堂内に入って来ないように目を光らせていました。龍のその眼差しの力強さに圧倒的な気迫を感じました。

仁王門

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石でできた仁王像が左右で守る仁王門

寛文二年(1662)に再建された仁王門である。仁王像は、あまり見られない石でできた像である。このお像は、もとは浅草寺にまつられるために造られたとされる伝承がある。秩父で造られたこのお像を、荒川を使って浅草寺に持っていく予定であったが、何らかの所以があってこの地にまつられるようになったといわれている。また浅草寺の本尊の観音様は、ここ河田谷の観音さまだったものが荒川から流れ、浅草に行ったという伝説も残る。

感想■石でできた珍しい仁王像で、彫刻としての勇ましさはもちろん材質から感じられる重々しさが、悪いものを寄せ付けない力強さとして感じることができました。浅草寺に行く途中だったという伝承も含め、この地で堂々と見守る姿は人々を安住の地をみつけた安心感とこの地を守る使命感にあふれているようにも感じました。

report

学生レポート

奈良大学大学院1回生

この地が関東における天台宗の道場であり、ここから関東一円の天台宗の僧侶、身延山の日蓮宗の僧侶等多くの方々が羽ばたいていったことを聞き驚きました。関東にも多くの天台宗寺院がありますが、ここから育っていったことを考えると感慨深いと思いました。
ご住職の説明を聞いている中で、何としてでもこの泉福寺が歩んできた歴史や文化を守っていきたいという思いが強いように感じました。格式の高いお寺だからこその時代や制度のあおりを受け、ご住職がこのお寺に入ったときは大分荒廃してしまっていたことを伺いました。そんな中で、今のようなきれいな本堂や仏さまが守られてきているのには、ご住職の熱意と人柄によるものであり、それによってこのお寺を守っていきたいという多くの人々が集まったのだと感じました。

history

ご由緒

かつてこの地に大きな池があり、魚がたくさん獲れた。ここに住む農民は、そこに住む魚を食べたり売ったりして生活していた。ある日「河宰」と名乗る人物が現れ、過去に仏が説法した霊地であるにも関わらず、汚れてしまっていると嘆き、池に身を投じると、大蛇が現れ大きな被害が出た。そこで天長六年(829)、淳和天皇が慈覚大師円仁に大蛇の討伐と疫病の回復を命じ、円仁が仏像を造り、念じると大蛇や疫病は亡くなった。そこでこの場所にお堂を整備しできた寺院が泉福寺である。 鎌倉時代に幕府が鎌倉にできるとそれに伴い関東で天台の教えを広めるべく、文暦元年(1234)に信尊上人とその弟子である廣日・海日・廣海・尊海等がこのお寺に来て中興し、関東における天台の学問所とし、関東天台教学の中心地として大いに隆盛した。寛文元年(1243)には、後嵯峨天皇より『東叡山勅願院』の勅額を賜っている。その後、江戸時代になると徳川家より庇護を受け、第14代将軍徳川家茂公までの歴代の御朱印が伝えられている。

info

参拝情報

名称
東叡山泉福寺
(とうえいざんせんぷくじ)
所在地
埼玉県桶川市川田谷2012
googleMAP
参拝時間
通常非公開
拝観料
志納
宗派
天台宗
御本尊
地蔵菩薩
宝物殿
なし
アクセス
■公共交通機関:JR高崎線桶川駅下車後、東武バス乗車。『三ッ木』バス停下車後、徒歩12分。
駐車場
有り

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