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ご由緒
等覚院はもと西岸山等覚院来迎寺と称され、暦応5年1月に誓信上人により開基され、享保6年に玄海上人により中興されたと伝えられている。昭和44年、本寺であった慈雲寺と合併し、現在の慈雲山等覚院来迎寺となった。その慈雲寺、等覚院、付近の吉祥寺と合わせ古凍三山と呼ばれた。本尊は十一面観音立像。また、国の重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像をまつる。
凜々しい阿弥陀さまが人々を迎える
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とうがくいん
埼玉県東松山市
凜々しい眼差しを私たちに向ける阿弥陀さまの魅力に是非触れてください。本堂におまつりされるご本尊・十一面観音さまや欄間の彫刻にもお参りください。
寄木造で金箔が押されている、阿弥陀如来坐像。造立時期は、平安時代とも鎌倉時代ともされている。上品下生の印を結び、蓮華の上に結跏趺坐の姿をとる。昭和26年に行われた修復の際、像内に「奉修理阿弥陀如来像一躰 大仏師定性 塗師▢▢ 建長五年癸丑卯月卅」の銘が記されていることが判明した。伝承では、釜穴と呼ばれる湧水地より出現したとされ、等覚院がある「古凍」地区は「古郡」とされ、郡司の館跡とも考えられることから、この阿弥陀さまは郡司の持仏堂の本尊であった可能性も考えられている。
本堂中央の厨子の内部におまつりされている十一面観音立像。像高17㎝ほどの小さなお像である。造立は江戸時代頃と考えられている。同じ厨子内部の両脇には天部立像や日光菩薩立像・月光菩薩立像が脇をかためている。また、ご本尊がおまつりされている須弥壇上には勢至菩薩立像や地蔵菩薩立像がまつられている。東日本大震災を契機におまつりされているお像や厨子の修復を行っている。
明治年間の火災の後に建てられた本堂内部には、龍などの伝説上の生き物が迫力ある表現で刻まれている欄間彫刻で彩られている。また、昔住職が使用していたという輿が残されている。
関東地方で多く造立された板碑(供養として造られた石碑)。等覚院の境内にも伝えられており、中には応永年間(1394~1428)の銘が残るものもある。表面には阿弥陀如来を表わす種字か刻まれている。
学生レポート

立命館大学生命科学研究科3年
ご由緒
等覚院はもと西岸山等覚院来迎寺と称され、暦応5年1月に誓信上人により開基され、享保6年に玄海上人により中興されたと伝えられている。昭和44年、本寺であった慈雲寺と合併し、現在の慈雲山等覚院来迎寺となった。その慈雲寺、等覚院、付近の吉祥寺と合わせ古凍三山と呼ばれた。本尊は十一面観音立像。また、国の重要文化財に指定されている阿弥陀如来坐像をまつる。
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