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ご由緒
およそ1300年前、神峯山を訪れた役行者の前に金毘羅童子(こんぴらどうし)が現れ、1つの霊木から4体の毘沙門天を出現させた。その4体の毘沙門天に役行者が魂を入れると四方に飛んでいき、そのうちの1体が神峯山寺にまつられたと伝わる。その後の774年、光仁天皇が皇子の開成皇子に命じ中興され、山岳信仰や龍神信仰など様々な信仰が息づき「七高山」の一つとして多くの信仰を集めた。
祈りの音が絶え間なく山々に響く
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かぶさんじ
大阪府高槻市
日本を代表する霊山の一つとして知られる神峯山には、毘沙門天に対する信仰だけでなく、龍神に対する信仰や阿弥陀さまに対する信仰など様々な仏さま・神々の信仰が息づいています。
江戸時代に建立されたとされる本堂には、神峯山寺の本尊である3体の毘沙門天がおまつりされている。本堂の内陣中央の厨子の内部には、奥様にあたる吉祥天女、お子様に当たる善膩師童子(ぜんにしどうし)とともに『毘沙門天』が、中内陣には2つの体を持つ『双身毘沙門天』が、内内陣中央の厨子の内部には『兜跋毘沙門天』がおまつりされている。第一の本尊は家内安全や子宝子授などの信仰を、第三の本尊は戦勝祈願や商売繁盛など現世利益の福の神としての信仰を集める。第二の本尊である『双身毘沙門天』は、非常に霊験の強い毘沙門天のため、絶対秘仏であり限られた修行僧しか拝むことができない。双身毘沙門天は人間がもつ正義と闇の両方を持って拝むことで強靭な力が発揮されるが、強い願いをかけるのであれば必死になって拝まないと拝む者自身の命を取られてしまう恐れがあるという。兜跋(とばつ)とはチベット地方に存在していた兜跋国ということを示すことから、兜跋毘沙門天は兜跋国の毘沙門天という意味であり、通常地天女に支えられる姿をしているが、第三の本尊『兜跋毘沙門天』は第一の本尊『毘沙門天』の姿と似ているという。これは、当初兜跋毘沙門天としてまつられていた像は消失し、新たに造られた像だと考えられている。大阪の大商人である鴻池善右衛門も信仰し、大阪からの参拝ルートである三島江から神峯山寺参道にかけて石造の道しるべを建立したという。その道しるべは現在も残されている。なお、第一の本尊である『毘沙門天』は、寅の年・寅の月・寅の日・寅の刻に毘沙門天が舞い降りてきたという伝説があるため、12年に一度寅年に、第三の本尊である『兜跋毘沙門天』は毎年11月23日の秋のお祭りの際にご開帳される。
内々陣におまつりされている阿弥陀如来坐像は、平安時代後期頃に造立されたと考えられているお像。今より約1000年前、神峯山の麓に住んでいた豪族・橘輔元(たちばなのすけもと)は不治の病を患っていた。その病魔に蝕まれた身体で神峯山寺を訪れ、阿弥陀如来の前で一心不乱に念仏を唱え続けたところ、病気は全快したという。その後、橘輔元は良忍(りょうにん)のもとで出家し融通念仏の第二祖および神峯山寺当山36代座主良恵(りょうけい)となり、阿弥陀如来(来生)と毘沙門天(現世)の信仰に重きをおいた『現世も来生も安泰』という神峯山寺独自の信仰を広めたという。この阿弥陀如来坐像は橘輔元が祈りをささげていた阿弥陀如来像と伝えられている。阿弥陀如来坐像の両脇には脇侍である観音菩薩立像と勢至菩薩立像が安置されている。
内内陣におまつりされている2体の聖観音菩薩立像は、向かって右側の1体が11世紀中ごろ、左側の1体が12世紀ころに造立されたと考えられているお像である。11世紀中ごろに造立された聖観音立像は、頭頂部から足元までヒノキの一材で造立され、彫眼、古色である。この像は、滋賀県栗東市の大野神社にておまつりされる十一面観音立像と法量や技法が共通し、同一の工房にて造立されたお像であると指摘されている。12世紀に造立された聖観音立像は、ヒノキ材の一木造で、右足を少し前に出す点が特徴である。昭和7年(1932)に修理された際の修理銘が台座裏に貼り付けられている。
内内陣には、神峯山を整備した開成皇子像がおまつりされている。開成皇子は光仁天皇の皇子で平安京を整備した桓武天皇の庶兄である。開成皇子は北摂地域に数々のお寺を創建・整備し勅願所とし、神峯山寺も天皇家の菊の紋や毘沙門菊甲紋をいただいたという。神峯山寺におまつりされる開成皇子像は両手を胸の前で交差する独特なポーズをしている。調査により、ヒノキ材の寄木造、桃山時代(16世紀後半)に造立されたお像であると考えられている。
内内陣には、イコンが掲げられている。イコンとはキリスト教、主に正教会で用いられる聖像画である。神峯山寺にまつられているイコンは、かつてセルビア大使を務めていた方から寄進された画という。セルビア中東戦争が深刻化していた際、セルビアで日本大使をされていた方が、セルビアを離れる際にセルビアの人々からお礼として渡されたという。このイコンには、「戦争を早く終わらせてください。」という人々の願いが込められ、大使をされていた方は神峯山寺とも深くご縁がある方でもあり、祈りの場所におまつりしてほしいと寄進されたという。
内内陣におまつりされる第三の本尊のお厨子の前には胎蔵界の大日如来坐像が、その前には神仏習合の歴史を今に伝える鏡が置かれ、神峯山の神である金毘羅飯綱大権現( こんぴらいいづなだいごんげん)がおまつりされている。神峯山の麓の村では、川の氾濫を鎮めるために水の神様を勧請したという逸話や神峯山の峰を龍の背になぞらえ、山全体が村を見守る龍神として信仰が今に伝えられている。第一の本尊のお厨子の周囲には四方を守る四天王像が、厨子の背後には中世に造立されたと考えられている千手観音菩薩坐像がおまつりされている。さらに内陣の左右の壇には宇賀神弁財天や如意輪観音像、大黒天像、天台大師像など様々な仏さまがおまつりされている。
本堂脇の急峻な階段を登った先にあるお堂。内部には神峯山寺の信仰の礎をつくった役行者とその使いの鬼である藍婆(らんば)と毘藍婆(びらんば)がおまつりされているという。神峯山寺で最も高い場所に建っているという。
2013年、かつて神峯山寺にあったという化城院が復興・落慶した。現在の化城院は毘沙門不動護摩を毎日焚く護摩道場となっており、2011年より連続祈願をスタートし、2024年11月4日には連続5,000日を達成する。
本堂西側には光仁天皇墓碑と称される十三重石塔が建立されている。石塔内部には神峯山寺を勅願所としたという光仁天皇の遺骨が分骨されているという。光仁天皇墓碑近くの山中には開成皇子断髪塔と称される五重石塔が建立されている。神峯山を整備した開成皇子の髪をおさめているという。
学生レポート
立命館大学生命科学研究科3年
ご由緒
およそ1300年前、神峯山を訪れた役行者の前に金毘羅童子(こんぴらどうし)が現れ、1つの霊木から4体の毘沙門天を出現させた。その4体の毘沙門天に役行者が魂を入れると四方に飛んでいき、そのうちの1体が神峯山寺にまつられたと伝わる。その後の774年、光仁天皇が皇子の開成皇子に命じ中興され、山岳信仰や龍神信仰など様々な信仰が息づき「七高山」の一つとして多くの信仰を集めた。
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