経堂に隣接する金毘羅堂は、金毘羅大将をまつる建物。江戸時代中期、一宮町上宿に住んでいた斉藤伝九朗という人物が、海難守護・大漁祈願のために讃岐の金毘羅大将の分霊を勧請したことに始まるという。伝九朗は最初は自宅の神棚に金毘羅大将をおまつりしていたが、後に愛宕山安養寺というお寺におまつりしたという。江戸時代の終わりごろには、玉前神社の境内のお堂におまつりされていたが、明治時代の神仏分離令に伴い現在地へ移された。明治12年(1879)には現在の規模のお堂に改修され、翌13年には、正面に向拝が取り付けられ現在の姿の建物となった。もともとは茅葺の建物であったという。
鮮やかな朱色と迫力ある彫刻に彩られる建物で、桁行3間・梁間4間の入母屋造の建物。平成6年~平成7年(1995~1996)に実施された解体修理において、「延享五年建立」と記された墨書が発見されたことから、延享5年(1748)に建立された建物の部材が失われることなく用いられていると考えられている。
堂内中央の厨子の内部には、秘仏である金毘羅大将をおまつりしている。右手に剣を持ち、左手に経巻を持つお姿であり、背中に大きな翼を広げているという。
また、金毘羅堂には秘仏・不動明王坐像(一宮町指定有形文化財)がおまつりされている。右手に勇ましい宝剣を、左手に羂索を持ち、背後には燃え上がる大きな火焔を表す。
像内に「大永七年」や「七条大佛所 法印 康乗 康隆作」との墨書が記されていることから、室町時代の大永7年(1527)に中央で活躍した仏師たちにより造立されたと考えられているお不動さまである。
また、金毘羅堂へ続く石段の左右には、かつて鳥居を構成していた2つの石の柱が立っている。柱には天保8年(1837)の銘が刻まれている。明治時代の神仏分離令に伴い観明寺に移した際、神道の意味合いが強い鳥居をそのまま移設することは難しいということから、鳥居の上部の笠木などの横方向の部材を外したとされている。
感想■遠く離れた地である讃岐と上総の繋がりに興味を抱きました。海上での安寧のために、上総から遠く離れた讃岐まで赴き仏様をお迎えしたと伺い、ついつい私たちは先人たちの行動範囲が今よりも狭いと先入観で考えてしまいますが、私たちの想像以上に遠く離れた地との繋がりがあり、文化や宗教などの多様な交流があったのだと実感することができました。