「歴史を繋いだ想いを未来へつなげる」日本文化の魅力交流ポータル

  • Instgram
  • facebook

慈愛のこころに満たされる武田信玄公火葬のお寺

いいね 0

ちょうがくじ

長岳寺

長野県下伊那郡阿智村

  • 行きたい
  • 行った
阿智村に戦国の巨星、武田信玄公が火葬された古刹・長岳寺があります。信玄公が身に着けた兜の前立が大切に伝えられ、信玄公を慕う多くの方々が参拝されます。 また、伝教大師が古代東山道随一の難所・神坂峠に設けた布施屋・広拯院を起源にすると伝えられ、伝教大師とゆかりの深いお寺として歴史を紡いています。毎年春には、伝教大師御作と伝承のあるお薬師さまが里帰りをする「木槌薬師の里帰り」が行われ、多くの方々が長岳寺へと集います。

巡りポイント

古代より歴史を紡いできた長岳寺には、様々な時代に生きた先人たちの姿や志、想いを伝える仏さまや寺宝が大切に守り伝えられています。古代より人々の想いを受け継ぎ紡ぐお寺として、穏やかで優しい祈りに満たされる古刹です。

 

本堂

  • 本堂
  • 本堂
    秘仏御本尊・十一面観音さまがおまつりされる厨子
  • いいね

伝教大師が難所を越える人々のために設けた広拯院を起源とする

長岳寺は、東国に教えを広めるために当地を訪れた伝教大師により創建されたと伝えられている。

 

弘仁年間、伝教大師は東山道を通り現在の阿智村を訪れた。麓からの標高差が1000メートル近くある神坂峠のある当地は、東山道を行き交う人々にとって一番の難所であり、伝教大師もご苦労をされたと伝えられている。伝教大師は、神坂峠を往来する人々が安心して往来できるように、そして安らぐことができるようにと、岐阜県側に広済院(こうさいいん)、長野県側に広拯院(こうじょういん)という布施屋(現在の休憩所)を設けた。長岳寺はこの広拯院に起源をもつとされ、『広拯山』という山号にその由緒を伝えている。

 

長岳寺の本堂中央には、秘仏御本尊である十一面観音さまがおまつりされている。

感想■伝教大師から紡がれている長岳寺の歴史を伺い、急峻な山道を往来した当時の人々の力強さに圧倒されるとともに、往来する人々のために広拯院を設けられた伝教大師の想いに感動しました。

信玄公の兜の前立・供養塔

  • 信玄公の兜の前立・供養塔
    信玄公の兜の前立
  • 信玄公の兜の前立・供養塔
    武田信玄公像
  • 信玄公の兜の前立・供養塔
    武田信玄公の供養塔
  • いいね

信玄公が火葬された地・長岳寺

元亀3年(1572)の冬、甲斐の寅とも称される武田信玄公と織田信長公・徳川家康公は三方ヶ原で対峙し戦った(三方ヶ原の戦い)。三方ヶ原の戦いで武田方は勝利し、敗走した徳川方をさらに攻めるべく、徳川方が籠る浜松城周辺の野田城を攻略していた。しかし、総大将である信玄公の病状が悪化し、甲州へ引き上げることとなり、途中の伊那の里・駒場で亡くなったという。戦の最中であったことから信玄公の死は公表せず、本陣が敷かれていたこの長岳寺において火葬が行われ、遺骨が甲州へ戻ることとなったと伝わる。このような歴史から、長岳寺は武田家から『武田菱』の使用が認められており、境内には供養塔が建てられている。

 

また、長岳寺の寺宝として信玄公の兜につけられた前立が伝えられている。精緻な透彫が施されている点が特徴で、信玄公の姿を彷彿とさせる貴重な文化財である。

感想■境内の随所に掲げられている「武田菱」の寺紋が、信玄公の力強い志を伝えているように感じました。このような「武田菱」や信玄公の姿を描いた絵、信玄公の兜の前立などが大切に守り伝えられているということは、志半ばで倒れられた信玄公の想いがこれらの”モノ”に託され、後の世に生きる人々に受け継がれてきたのだと感じました。

木造薬師如来立像(木槌薬師)

  • 木造薬師如来立像(木槌薬師)
  • 木造薬師如来立像(木槌薬師)
  • 木造薬師如来立像(木槌薬師)
    「木槌薬師の里帰り」の際に用いられるお神輿(江戸時代の制作)
  • いいね

毎年里帰りをされるお薬師さま

本堂後方の厨子の内部におまつりされている薬師如来立像は、「木槌薬師」または「お薬師さま」と呼ばれて信仰を集める薬師如来さまで、伝教大師が造立したとの伝承が残る。もともと、後述のお不動さまと同様に、観照寺におまつりされていた仏さまである。

 

「木槌薬師」というお名前は、かつて伝教大師が鳳来寺のお薬師さまを造立されたときの残りの材木を槌にしていて、その槌からこちらの薬師如来さまを造立されたということに因むと伝えられている。そのことから、観照寺が伽藍を構えた地は「木槌の洞」と呼ばれていたという。

 

天正10年(1582)2月、織田の軍勢により観照寺は焼討ちされ、全山焼失の憂き目にあう。その際、このお薬師さまやお不動さまは助け出され、長岳寺に移されたという。

 

寛政3年(1791)、近隣の村人たちにより観照寺跡に小堂が再建されたことを機に、お薬師さまを観照寺跡へお帰りいただく祭礼である「木槌薬師の里帰り」が創始された。

 

「木槌薬師の里帰り」では、お神輿にお薬師さまを乗せ、周辺の地区を巡りながら里帰りを行う。創始以来、途切れることなく200年以上伝えられてきた祭礼であり、現在、阿智村指定民俗文化財となっている。

感想■江戸から明治、大正、昭和、平成、令和と激動の時代を途切れることなく200年以上伝えられていることに驚愕いたしました。それぞれの時代に生きる人々の願いとともに薬師如来さまはお里帰りされ、変わりゆく時代の変化も地域の人々とともに楽しまれているのかなとお優しいお顔を拝しながら思いました。

木造不動明王立像

  • 木造不動明王立像
  • 木造不動明王立像
  • 木造不動明王立像
  • いいね

慈覚大師による作との伝承がある大きなお不動さま

堂内正面左におまつりされているお不動さま(不動明王)は、慈覚大師により造立されたとの伝承が伝えられている仏さま。もともとは、大伽藍を有していたが織田の軍勢による焼討ちにより全山焼失してしまったとされる観照寺におまつりされていた仏さまであったという。お不動さまは焼討ち後の焼け跡から発見され、先述のお薬師さまと共に長岳寺に移されおまつりされた。

 

右手に剣を持ち、左手を胸前に持ち上げ羂索を持つ。背後には火焔を設けるお姿で、大らかで柔らかな衣の表現が特徴のお不動さまである。

感想■焼討ちから助け出され、現在まで大切におまつりされていることに感動しました。御住職に伺うと、造立されてから修理などにより失われてしまった箇所を補われてきた歴史があり、現在もすらりと立つその立ち姿にたくさんの方々の祈りや想いが込められていることを強く感じました。

千体地蔵菩薩像

  • 千体地蔵菩薩像
  • 千体地蔵菩薩像
  • 千体地蔵菩薩像
  • いいね

天明の飢饉で亡くなった方々を供養する

本堂後方に千体地蔵菩薩像が安置されている。中央に大きな地蔵菩薩立像が安置され、その後方にたくさんの小さな地蔵菩薩像が安置される。小さな地蔵菩薩像は天明年間に発生した『天明の大飢饉』で亡くなった方々を供養するために奉納されたという。

 

中央の地蔵菩薩立像の手が失われている。これは明治時代に出された神仏分離令に伴う廃仏毀釈運動の影響により失われてしまったという。廃仏毀釈という歴史があった記憶を今に伝える仏さまでもある。

感想■小さなお地蔵さまのお姿をじっくりとお参りすると、それぞれのお姿がわずかに異なっているように思えました。もしかしたら、天明の飢饉で亡くなった方々の御遺族の方々が故人のことを偲びながら、大切に彫られて奉納された仏さまなのかなと思い、現在を生きる自分が不自由なく生活できることは当たり前ではないのだと今一度考えさせられました。

長岳寺の仏さま

  • 長岳寺の仏さま
    大日如来坐像
  • 長岳寺の仏さま
    蚕玉神像
  • 長岳寺の仏さま
    蚕玉神像
  • 長岳寺の仏さま
    中央の版木:蚕玉さまのお姿を現わす
  • 長岳寺の仏さま
    馬場美濃守の御持仏と伝わる観音立像
  • 長岳寺の仏さま
    毘沙門天立像
  • いいね

長岳寺と地域の信仰を伝える仏さまたち

本堂におまつりされている大日如来さまは、大らかに表現された衣と細身のお身体、強く胸を張る点が特徴の仏さまである。頭上には宝冠を被り、胸元に瓔珞(ようらく)を身に着け、両手で智拳印を結ぶ。中世以前に造立された仏さまであると伝えられている。

 

大日如来さまの隣には、蚕の神さまである蚕玉神像がまつられている。白馬にまたがる蚕玉さまは、右手に蚕が食べる桑の枝葉を持ち、左手には宝珠を持つ。頭上には蚕の成虫の姿を組み込んだ宝冠を乗せている。長岳寺が伽藍を構えている下伊那地域は古来より養蚕が盛んな地であり、蚕の神さまである蚕玉さまが多くおまつりされている。長岳寺には蚕玉さまのお姿を写した版木も伝えられている。

 

他にも、武田家の武将である馬場美濃守の御持仏と伝わる観音さま、毘沙門天さまなど様々な仏さまがまつられている。

感想■蚕の神さまである蚕玉さまは初めてお会いしました。手に桑の葉を持ち、頭に蚕の成虫の姿を取り入れた宝冠を乗せるお姿からは、下伊那地域の方々がいかに蚕のことを大切にしていたかが感じられました。宗派を越えて蚕に関する神さま・仏さまが下伊那地域にはたくさんおまつりされていると伺い、それぞれのお寺や神社をお参りしたいと思いました。

中国残留孤児の肉親捜し

  • 中国残留孤児の肉親捜し
    山本慈昭師の胸像
  • いいね

第27世住職・山本慈昭師の「無償の愛」

長岳寺は、中国残留孤児の肉親捜しを始めた寺院として知られている。肉親捜しを始めたのは第27世住職を務めた山本慈昭師である。

 

山本慈昭師は、昭和20年、開拓移民の子どもたちの学校の先生としてご家族とともに大陸へ渡った。しかしながら、ソビエトの参戦にともない、逃避行中に家族と離別しシベリアに抑留された。山本師は2年間の抑留後に日本へ帰国することができたが、家族との再会を希望に帰国した山本師を待っていたのは、奥さんと子供たちが亡くなったという情報だった。

 

当時、山本師のご家族以外にも日本に帰国できずに大陸で多くの方々が亡くなったとされていた。しかしながら、亡くなったとされていた多くの方々が大陸で存命であることが判明し、両親と離れ離れとなった子供たち(中国残留孤児)が生きているという事実が判明した。

 

この事実を知った山本師は、私財を投じて日本国内に加えて中国でもテレビやラジオ、新聞を使って情報提供を呼びかけ、中国に残る子供たちの肉親捜しに奔走した。当時の山本師は、少しでも情報を得るために、東京まで最短でも往復16時間かかる道のりを1か月に何度も往復するという壮絶な生活をしていたという。

 

このような山本師の活動が日本や中国の多くの人々に広がり、多くの子供たちが肉親に再会することができたという。肉親に再会できていない子供たちにも、「本当の親はまだ見つかっていないけれど、一人、親はいるよ。私がいるからね、何かあったらいつでも連絡しなさい。」と言葉をかけて子供たちに寄り添い続けた山本師は、いつしか「中国残留孤児の父」と呼ばれるようになった。

 

長岳寺では、先の戦争によりどのようなことが起こったのか、これからの日本のためにどのようなことが私たちにできるのか、お参りの方々が考えるきっかけになればとの想いで、山本師の活動をお話ししている。

感想■子供たちの肉親捜しの活動について伺い、山本師の気持ちを考えました。厳しいシベリア抑留をも経験したとのことで、私には想像もつかないほど苦しまれたと思います。それでも、子供たちと家族を再開させたいとの一心で東奔西走し、実行に移した山本師は立派なお人だと思いました。

吉川優氏による襖絵

  • 吉川優氏による襖絵
  • 吉川優氏による襖絵
  • 吉川優氏による襖絵
  • 吉川優氏による襖絵
  • 吉川優氏による襖絵
  • 吉川優氏による襖絵
  • いいね

阿智村在住の日本画家が描く美しい下伊那の四季

阿智村在住の日本画家・吉川優氏による襖絵が本堂を彩っている。下伊那地方の四季をテーマとした9種の連作から成り、「春の間」「夏の間」「秋の間」「冬の間」「火炎の間」「月の間」「朝日の図」などが描かれている。 

 

特に「冬の間」はただの風景画ではなく、実は宗教画として描かれたという。冬を描いた襖絵には光源が2つあり、奥に見えている光はこの世の光ではなく極楽の御光として描かれ、仏教徒の人は信じると必ず極楽に行くことができるということがあらわされている。六地蔵や龍、鳳凰も描かれており、『冬の凍った道を歩くように一歩一歩注意しながら進んでいくのが人生だ』というメッセージが込められている。

感想■数枚の襖にまたがるその壮大な構図と、繊細でありながら大胆な筆致の豊かな表現力に、思わず息をのみました。春・夏・秋・冬の四季が、それぞれ異なる張力と美しさで描き分けられており、見ていて飽きることがありません。ご住職のご説明によって、冬の襖絵に描かれた枯れ木の背後には、信仰を持つ者にしか見えない「極楽浄土へと向かう万丈の仏光」が表現されていることを知り、心打たれました。

report

学生レポート

龍谷大学 3年

武田信玄公終焉の史跡としての歴史的価値は事前に存じておりましたが、御住職様のお話から、残留孤児支援の取り組みについて初めて知ることができました。前御住職様が孤児一人ひとりに1000円のラジオを配り、「ここにあなたの親がいるからね」と寄り添い支えてこられたその姿勢に、深い人間愛と温かな思いを感じました。

また、歴史を学ぶ際には日本だけでなく世界との比較・照らし合わせが重要という教えも、改めて胸に刻まれました。さらに、四季を描いた襖絵に触れ、宗教的寓意が込められた冬の襖絵には六地蔵さまや鳳凰、龍などが隠されていると伺い、じっくりと見入ってしまうような感動を覚えました。

信玄公が地域に対して施された慈しみによって選ばれた歴史背景なども伺い、情報の取捨選択において正しいものを見極める力の大切さを感じます。そして、御住職様がチューリップの歌を皆の個性を尊重する象徴として語られた言葉は、誰一人取り残さないという仏教の教えと重なり、深く共感しました。

history

ご由緒

弘仁年間(810 - 824)、神坂峠を越える人々のために伝教大師が整備した廣拯院を起源にすると伝えられている。中世には、現在地付近に移転をして「長岳寺」と寺号を変更したという。戦国時代、伊那の里・駒場で落命したという武田信玄公が火葬された地としても知られており、武田信玄公にゆかりのある宝物が伝えられている。

 

また、江戸時代には、織田の軍勢の焼討ちにより焼失してしまった観照寺の本尊・『木槌薬師』を、観照寺跡に建てられたお堂に里帰りしていただく『木槌薬師の里帰り』が創始され、絶えることなく現在まで伝えられている。第27世住職・山本慈昭師が中国残留孤児の肉親捜しに尽力されたことでも知られている。中部四十九薬師霊場第二十番札所、伊那坂東観音札所第十八番札所。

info

参拝情報

名称
広拯山 長岳寺
(こうじょうざん ちょうがくじ)
所在地
長野県下伊那郡阿智村駒場569
googleMAP
参拝時間
9:00~17:00
拝観料
寺宝拝観料:200円(お一人あたり)
※宝物・仏さまの写真撮影はご遠慮いただいております。
宗派
天台宗
御本尊
十一面観音
宝物展示室
あり
アクセス
■公共交通機関
高速バス 駒場(中央道昼神温泉)バス停より徒歩約20分。
路線バス こまんばバス停より徒歩約10分。

■車
飯田山本ICより約10分
駐車場
あり
備考
当ページに掲載の写真は保存不可処理を行っており、無断転載は禁止しております。
また、宝物・仏さまの写真撮影は不可としております。
ご理解・ご協力をよろしくお願い致します。

近くの寺院を巡ろう