history
ご由緒
「信濃比叡 廣拯院」が伽藍を構える地は、弘仁年間(810 - 824)、神坂峠を越える人々のために伝教大師が整備した廣拯院が建っていたと推定されている地。東山道沿いに建つ月見堂(護摩堂)は、廣拯院を起源にもつと考えられているお堂である。近年、伝教大師の遺跡地として復興が行われ、平成8年(1996)に伝教大師の御尊像が建立、平成12年(2000)に「信濃比叡」の呼称の許可、平成17年(2005)には不滅の法灯が分灯され、平成18年(2006)には根本中堂が落慶した。
星降る里にて伝教大師の志を伝える
いいね
0
しなのひえいこうじょういん
長野県下伊那郡阿智村
信濃比叡廣拯院は伝教大師とゆかりの深いお寺ということから、大きな伝教大師のご尊像が立ち、不滅の法灯が分灯されています。昼には青空のもと穏やかで優しい空気に満たされ、夜には「日本一の星空」が境内を照らしています。雄大な自然とともに伝教大師の志や想いが境内の随所に表れています。
平成8年に造立されたお像である。伝教大師は神坂峠を越えて東国へ教えを広めるために巡錫されたため、東の方角を向いて建立されている。
比叡山の特別許可のもと、比叡山の峰道に立つ伝教大師像と同じ鋳型を用いて造立され、日本全国で比叡山と信濃比叡廣拯院にしかないお像。しかしながら、まったく同じお姿ではなく、廣拯院のお像の方が1メートルほど高いお姿であるという。これは、廣拯院のお像を造立する際、峰道のお像を造立する際に使用した鋳型の足先を壊し始めしまっていたため、新たに足先を作り直したためであるという。
信濃比叡廣拯院の伽藍の中心となる根本中堂。2000年に『信濃比叡』の称号が認められた後、2006年にこの根本中堂(本堂)が落慶された。
堂内天井には、京都にある芸術大学の学生や信濃比叡廣拯院にご縁のある方々の手により描かれた花々が描かれている。多様な美しさを見る者に与える天井画は参拝者の方々の人気を集めている。
根本中堂の中央には、御本尊である薬師三尊像がおまつりされている。中央に薬師如来様、左右に脇侍である日光菩薩様と月光菩薩様がおまつりされている。
御本尊様の前には、比叡山より分灯された「不滅の法灯」が金色の灯篭内に灯されている。伝教大師にゆかりが深い地として2005年に分灯され、大切にまつられている。
また、根本中堂の堂内には、伝教大師坐像をはじめ、観音様や大日如来様など様々な仏様がおまつりされている。
根本中堂におまつりされている北辰妙見菩薩像は、北極星を神格化した仏様。妙見菩薩様は、中国で生み出された仏様であるとされ、中国の文化を伝える服装が特徴である。また、明王様かと思えるような忿怒の表情を浮かべる点も特徴の仏様である。
江戸時代までは、長野県の戸隠にておまつりされていた仏様であると伝えられている。その後、明治時代に勃発した廃仏毀釈運動の影響を逃れるために、飯山市の天台宗のお寺でおまつりされていた。
近年、阿智村の星空が「日本一の星空」として有名になり、星空を楽しむ皆様が阿智村を多く訪れるようになった。このことから、北辰妙見菩薩様も阿智村におまつりしたほうが喜ばれるだろうということで、廣拯院にお移りいただいた仏さまである。
養蚕勢至菩薩様は、養蚕が盛んな下伊那地域を象徴する仏様。白馬にまたがる仏様で、6本の腕には、お蚕さんやその餌となる桑の葉など養蚕に関係する持物を持っている。
根本中堂へ続く参道に建つ山門は、伝教大師東国巡錫1200年(廣拯院開山1200年)の節目に建立された建物。伝教大師の志を伝える篤信者により建立された。屋根がなだらかな曲線となる唐破風の屋根を持つ堂々たる門で、阿智村の宮大工棟梁・櫻井三也氏により建てられた。
鐘堂は山門をくぐり階段を登った場所に建つ建物。根本中堂の落慶にあわせて篤信者の方により寄進された。鐘堂に吊るされている梵鐘には、伝教大師が記された『山家学生式』が表されている。滋賀県東近江市の鋳匠・黄地佐平氏により鋳造された梵鐘であり、広く一般の方も撞くことのできる梵鐘である。
坐禅堂は、根本中堂に向かって右側に建てられている建物。廣拯院へお参りいただいた方々が坐禅止観や写経などを体験することのできる体験道場として建立された建物である。
堂内中央には、金色に輝く釈迦如来様がおまつりされている。この釈迦如来様は、もともと月見堂でおまつりされていた仏様であるという。
堂内天井には、迫力ある力強い文字で経典の一説が墨書きされている。
根本中堂に向かって左側に建つ如来堂は、中央に善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)様をおまつりするお堂。信者の方々の納骨堂でもある。
善光寺如来様は、一つの大きな光背のもとに、中央に阿弥陀如来様、左右に観音菩薩様・勢至菩薩様が立つお姿が特徴の仏様である。長野県長野市の善光寺の御本尊様のお姿であると伝えられ、古来より善光寺如来様のお姿が模刻され、宗派を越えて様々な寺院でおまつりされている。
また、如来堂の堂内には、愛知県名古屋市の信者の方より寄進された千手観音様もおまつりされている。
東山道一の難所である神坂峠を通る旅人のために伝教大師が建立した布施屋(休憩所)の一つ廣拯院の跡地に建つと伝えられている建物。江戸時代頃に建てられた建物であると考えられている。江戸時代頃に制作された精緻な彫刻が堂内を飾っている。
かつて、文人たちがこの場所で仲秋の名月を鑑賞したことから、『月見堂』と呼ばれるようになったという。
現在は護摩堂として、中央に不動明王様をおまつりし、不動明王様の御縁日である毎月28日に護摩祈願法要が修されている。
また、不動明王様の隣には子宝地蔵様がおまつりされている。右手に錫杖を、左手に宝珠を持ち、真ん丸で可愛らしいお顔が特徴のお地蔵様である。お地蔵様が左手に持つ宝珠を撫でてお参りすると、子宝に恵まれるとされ、信仰を集めている。
信濃比叡廣拯院が伽藍を構える園原の里には、古代の官道の一つである東山道が通っている。東山道は近江国から奥州を結ぶ全長約1000 kmの道で、東西を結ぶ大動脈の一つとして様々な人々や物資が往来したという。
その道のりの中でも屈指の難所と言われたのが、現在の岐阜県と長野県の境にある神坂峠。海抜1576 mの神坂峠を越えるには、1000 m以上の高低差がある約40 kmの山道を進む必要があり、命を落とす方々も多かったと伝えられている。
弘仁8年(817)、伝教大師が東国へ教えを広めるために神坂峠を越え、そのあまりに厳しい道のりから、神坂峠を越える人々のために休憩所である布施屋を岐阜県側と長野県側にそれぞれ1カ所ずつ設け、それぞれ廣済院(こうさいいん)、廣拯院(こうじょういん)と名付けたという。
樹齢が数百年から2000年にもなるという大木が林立する神坂峠には、神坂神社が建つ。神坂神社の御祭神は海の神様である住吉三神。江戸時代以前の詳しい歴史が明らかになっていない事から、なぜ山深い神坂峠に海の神様がおまつりされているのか不明であるが、古代東山道の人々の往来との関連が想像される。
神坂神社の社殿の近くには、古代東山道を往来した人々が詠んだ歌を刻んだ石碑が建てられている。
『ちはやふる 神の御坂(みさか)の 幣(ぬさ)まつり 斎(いは)ふ命は 母父(おもちち)がため』
この歌は、防人として九州北部に赴く信濃国の若者の歌として万葉集に載る歌。
難所である神坂峠を無事に越えられるように供物を捧げ祈る先人たちの気持ちを表すように、神坂峠周辺では石で作られたお供え物(石製模造品)が大量に出土し、その量は日本でもトップクラスであるという。
大きなヒノキの切株である帚木。昭和33年(1958)の台風によって倒れてしまう以前は、箒を逆さまにしたような姿が周囲の木々に埋もれることなく遠くから見ることができたという。しかしながら、近づいてみると周囲の景色に溶け込み見つけることが難しかったという逸話を伝える。
このことから、「帚木」という言葉が「人の心のうつろいや迷い、不確かなもの」の例えに使用されるようになり、源氏物語の第二帖の題に用いられている。
夕方になるとほのかに白く見えることから『暮白の滝』と名付けられた。暮白の滝の姿を展望できる滝見台からは、滝に向けて願いを込めたお皿を投げる皿投げ祈願が行われ、人気を集めている。
学生レポート

立命館大学4年
ご由緒
「信濃比叡 廣拯院」が伽藍を構える地は、弘仁年間(810 - 824)、神坂峠を越える人々のために伝教大師が整備した廣拯院が建っていたと推定されている地。東山道沿いに建つ月見堂(護摩堂)は、廣拯院を起源にもつと考えられているお堂である。近年、伝教大師の遺跡地として復興が行われ、平成8年(1996)に伝教大師の御尊像が建立、平成12年(2000)に「信濃比叡」の呼称の許可、平成17年(2005)には不滅の法灯が分灯され、平成18年(2006)には根本中堂が落慶した。
参拝情報