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ご由緒
武藏寺は大宰府の長官であった蘇我日向臣身刺によって、蘇我氏の氏寺として建立されたとされている。大宰府政庁は、大化5年(649)に蘇我日向臣身刺が初代の長官として大宰帥に任じられたことに始まるとされており、武藏寺もその頃の7世紀中頃の創建である。武藏寺という名は、身刺(みさし)から付けられている。このお寺は「今昔物語集」や「梁塵秘抄」にも出てきており、それだけ大きく栄えていたことがうかがえる。
大宰府政庁初代長官が創建した筑紫野市の古刹
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ぶぞうじ
福岡県筑紫野市
大宰府政庁初代長官が創建した筑紫野市の古刹、武蔵寺。この場所は菅原道真が無実を訴えた天拝山のある場所でもあります。仏像や経塚、縁起等の文化財も多く残っています。このお寺を無くしてはいけない、壊れたものも直し私たちの支えとしたいという数多の人々の力も感じられます。
厨子の中に秘仏である、約1.8ⅿの薬師如来像をまつる。薬師如来像は、虎麿が射った椿の木から彫りだしたという伝承が残り、大きな木であったため、その周りの12本の枝から十二神将像を彫ったとされている。ご開帳は藤祭りが行われる4月、二日市温泉が発見されたとされ瓜封じの法要が行われる7月の土用の丑の日、一年間のお経を埋める経筒埋納法要が行われる11月第一日曜日の年に3日間ある。
虎麿が射った椿の大木は十二枝を伸ばしており、幹から薬師如来、枝から十二神将像を彫ったという伝説が残る。平安時代末期に造られた十二神将像で、動きは落ち着き抑揚が抑えた表現がされる像である。
本堂は400年前ほどの建物で、平成5年に改修が行われた。祈願寺であったため小さいお堂であり、改修の際に広げられた。その広げられた部分には、多くの人々に般若心経を書いていただいた板を天井にはめている。それによりお堂に入ることでお経に守られ、仏教に守られ、お薬師さんに守られ、お堂入っただけで心が清まる空間作りが行われている。 元の堂宇の部分は以前のまま残され、そこには詩が書かれている。修理が行われたときに、江戸時代の落書きが見つかり「小工」と記されていた。 また、本堂前に『長者の藤』という大きな藤が繁茂している。武蔵寺縁起によれば、お寺を開いた藤原虎麿が「堂塔の盛衰は、この藤の栄枯にあらん」と誓って植えたという。伝説では1300年以上の樹齢だが、実際には700年ほどの樹齢であるという。慶応元年(1865)には、八月十八日の政変によって太宰府に下った東久世 通禧(ひがしくぜみちとみ)がこの長者の藤を題材に「藤なみの はなになれつつ みやひとの むかしのいろに そてをそめけり」と詠んだ。
このお寺には経塚が発見されている。経塚は武藏寺の山の頂上にあり、出土した経筒には寛治八年(1094)の銘が書かれているものも含まれていた。経筒の数点には母の供養のためと書かれ、髪の毛が入っているものもあった。経塚から出土したものは今は筑紫野市歴史博物館へ寄託されている。
武藏寺縁起(絵図)として、江戸時代前期から中期ぐらいに定應という僧侶が書き写したとされているものが、県指定の文化財として残されている。縁起の一幅目には武蔵寺の当時の様子を描き、二幅目からは武藏寺の縁起としての物語が表される。縁起の中では、名が藤原虎麿として伝説が残されている。蘇我氏が滅び藤原の時代になったときに蘇我氏の名が憚られたことにより藤原虎麿として名を変えられ、由来が残ったであろうと思われる。
学生レポート
奈良大学文学部文化財学科4年
ご由緒
武藏寺は大宰府の長官であった蘇我日向臣身刺によって、蘇我氏の氏寺として建立されたとされている。大宰府政庁は、大化5年(649)に蘇我日向臣身刺が初代の長官として大宰帥に任じられたことに始まるとされており、武藏寺もその頃の7世紀中頃の創建である。武藏寺という名は、身刺(みさし)から付けられている。このお寺は「今昔物語集」や「梁塵秘抄」にも出てきており、それだけ大きく栄えていたことがうかがえる。
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