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ご由緒
創建は、今から約1400年前の飛鳥時代の大化年間である。インドから来られた法道仙人がこの地に訪れ、自作の薬師如来を安置して始まったと伝えられている。中世はこの地は皇室領であったこともあり、本堂の建物は約700年前の正和年間に時の天皇である花園天皇のご帰依によって再建された。その際に山号を入れた「安泰山大国寺」の称号を賜った。大国寺が伽藍を構える地域は、戦国時代に明智光秀の丹波攻めの被害を被るが、大国寺はその被害を免れたため今日まで多数の文化財が守り伝えられている。
中世の丹波の姿が今に残る古刹
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だいこくじ
兵庫県丹波篠山市
鎌倉時代末期の再建でされた本堂である。内陣・中陣・外陣に分かれており、中陣より中が禅宗様で、外陣が和様という折衷様で造られている。中陣の柱にも木鼻がついているのは、日本では大国寺のみであるとみられている。現在は入母屋造りの茅葺き形銅板葺きの屋根だが、創建当初は檜皮葺きであった。昭和36年(1961)に国の重要文化財の指定を受け、その後解体修理が行われ、再建当初の姿へと原形復元されている。
本堂内陣の中央に、三尊の仏像が安置されており、いずれも重要文化財に指定される。
中尊は11世紀の像で文化財の指定名称では大日如来とされるが、中尊を薬師如来として手に薬壷を載せている。全体仏では法身仏である大日如来、手の印は定印を結び報身仏である阿弥陀如来、薬壺から応身仏である薬師如来を表しており一仏三身の如来であるとしている。
脇侍は中尊の一仏三身から胎蔵界大日如来と阿弥陀如来の要素を抜きだして脇侍としていることから、脇侍を大日如来と阿弥陀如来とする三尊形式である。脇侍は12世紀の作である。
薬師如来と大日如来の宝冠には宝相華が描かれ、中尊の後背や台座など当初のものも多く残されている。すべてヒノキの寄木造りの像である。
また、前面には室町時代に造立された十二神将立像がおまつりされ、御本尊をお守りしている。
三尊の横にまつられているのは持国天立像と増長天立像で、平安時代の像である。元来は二天門にまつりされていたが、本堂再建の際に二天門までの再建に至らず、保存を考えて本堂に移された。ヒノキの一木造りで、光背も当初の物が残されている。
本堂の西側にある天満宮には、十世紀まで遡る神像がおまつりされている。この像は天神像としておまつりされているが、像表面が摩耗して様子が伺いにくいものの長い髪を垂らしていることから、もとは女神像であったとみられる。
本堂の外陣、向かって右奥に金色に光り輝く大きな阿弥陀如来坐像がおまつりされている。この阿弥陀如来坐像は、江戸時代の万治年間に造立されたと考えられている阿弥陀如来坐像で、かつて大国寺の付近に伽藍を構えていた満願寺にまつられていたと伝わる。満願寺が廃寺になった際に、大国寺へと移されてきた。
学生レポート
奈良大学文学部文化財学科4年
ご由緒
創建は、今から約1400年前の飛鳥時代の大化年間である。インドから来られた法道仙人がこの地に訪れ、自作の薬師如来を安置して始まったと伝えられている。中世はこの地は皇室領であったこともあり、本堂の建物は約700年前の正和年間に時の天皇である花園天皇のご帰依によって再建された。その際に山号を入れた「安泰山大国寺」の称号を賜った。大国寺が伽藍を構える地域は、戦国時代に明智光秀の丹波攻めの被害を被るが、大国寺はその被害を免れたため今日まで多数の文化財が守り伝えられている。
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