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ご由緒
平安時代前期に延暦寺第三代天台座主の慈覚大師円仁によって開山、初め常願寺と称したという。貞観2年(860)、立石寺と改称し、清和天皇から印を下賜される。鎌倉時代、五代執権北条時頼の命により一時禅宗に改められるが、間も無く天台宗に戻る。 中世には戦乱に巻き込まれ、天童氏の攻撃を受けるが、最上氏の支援で復興される。 江戸時代には松尾芭蕉が訪れ、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を残している。
円仁が開いた「東北の比叡山」 急峻な岩壁の上に並び立つお堂の数々
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りっしゃくじ
山形県山形市
風光明媚な景色を目当てにたくさんの人々が訪れる立石寺。観光地としての立石寺は全国的に知られていますが、東北屈指の霊山としての立石寺、亡くなった方々の冥福を祈る場所としての立石寺の姿はあまり知られていません。立石寺を開いた慈覚大師が比叡山の姿をうつして伽藍を整備したと伝わる立石寺の境内を巡り、立石寺の奥深い魅力を体感していきましょう。
現在の根本中堂は延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼により建てられた建物という。その後、幾度かの修理をうけ、現在の姿は慶長13年(1608)時の姿を復元したという。全国的にも珍しいブナを主に使用した建築で、間口5間、奥行5間の雄大な建築である。
根本中堂の内陣に灯り続ける灯火は、立石寺の開山のとき、慈覚大師が比叡山に灯り続ける不滅の法灯を移したものという。その後、天童頼長による立石寺の焼討ちを乗り越え、1000年以上連綿と受け継がれてきたという。織田信長による比叡山焼討ちにより比叡山の不滅の法灯が途絶えた際には、立石寺の灯火から分灯された。
ご本尊の薬師如来坐像は、平安前期、9世紀末に造立されたと考えられている。像高は半丈六の約130センチあり、京都の仏師が立石寺を訪れ、造立したお像であると伝えられている。50年に一度ご開帳されるお像であり、2013年にご開帳された際には多くの人々が参拝した。ご本尊の両脇には、日光菩薩・月光菩薩がおまつりされ、その横には十二神将立像が脇をかためる。当初の日光菩薩・月光菩薩・十二神将立像は江戸時代に寛永寺に移され、寛永年間ごろ(1624~1645)に移動した代わりに造立されたお像である。ご本尊の左の脇壇には毘沙門天立像がおまつりされている。近年の調査により、ご本尊と同じく平安時代初期に造立されたお像であるとされ注目されている。ご本尊の右手には僧形の文殊菩薩坐像がおまつりされている。比叡山と同様に、昔は門上におまつりされていたが、門が破損してからは根本中堂でおまつりされていると伝わる。
奥の院までには1000段にもなる階段をのぼらなければならない。その階段の両脇には、急峻な岩壁に刻まれた磨崖供養碑や石塔、石燈籠が参拝者を迎える。そのほとんどが江戸時代に刻まれたものである。
かつて比叡山の横川で慈覚大師によって始まったとされる如法写経行。この行法は、石の墨と草の筆を使い(石墨草筆)、1文字書くごとに3回礼拝をして法華経を書写する特別な作法を必要とする。如法写経行は立石寺でのみ受け継がれている。ご本尊は慈覚大師とともに中国を旅した釈迦如来と多宝如来である。書写した経典は断崖絶壁に位置する納経堂におさめるという。
大仏殿の中央には像高5メートルの金色の阿弥陀如来が安置されている。この像は先祖供養のために、昭和に鋳造された。現在の大仏殿が平成に建立されてからこの場所でおまつりされている。また大仏殿の壁面には若くして亡くなった方々の供養のための絵馬「ムカサリ絵馬」がかけられている。
貞観6年(864)の1月14日に、延暦寺の前唐院という場所で亡くなった慈覚大師のご遺体が、その夜のうちに光にのって北の方向へ飛んでいき、その光が到達したのが立石寺だったと伝わる。昭和23、24年(1948、49)の調査により入定窟の内部から棺とご遺骨、慈覚大師のお顔を模した木像が発見された。入定窟がある岩壁の上部には慈覚大師をおまつりする開山堂が建立されている。
舞台造の五大堂には、その名の通り五大明王がおまつりされている。舞台からは奥羽山系を一望でき、絶景が広がる。
学生レポート
立命館大学生命科学部4年
ご由緒
平安時代前期に延暦寺第三代天台座主の慈覚大師円仁によって開山、初め常願寺と称したという。貞観2年(860)、立石寺と改称し、清和天皇から印を下賜される。鎌倉時代、五代執権北条時頼の命により一時禅宗に改められるが、間も無く天台宗に戻る。 中世には戦乱に巻き込まれ、天童氏の攻撃を受けるが、最上氏の支援で復興される。 江戸時代には松尾芭蕉が訪れ、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を残している。
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