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深山の中に伝教大師が創建した観音さまの霊地が広がる

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きよみずでら

清水寺

福岡県みやま市

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古来より日本の玄関口である九州の地。そのような九州には唐に留学した伝教大師が創建されたお寺が数多く伝えられています。みやま市に伽藍を構える清水寺は、唐より帰国した伝教大師がこの地で霊木を見つけ、千手観音像を造立・安置したことにはじまるといいます。中世には水墨画の名手・雪舟が訪れ付近の景観を利用した名庭園を作庭しました。毎年8月9日の早朝から翌10日の午前中まで行われる「夜観音朝観音」の法要にはこの地域より多くの参拝者が集います。

巡りポイント

雪舟が作庭したという本坊庭園は周囲の山々や自然を取り入れ、まるで雪舟の山水画の世界に足を踏み入れたような深山幽谷の世界が広がっています。本坊より山を登った先にある大きな本堂の内部には、巨大な千手観音さまがおまつりされ、年に一度参拝者の前に姿をあらわします。

本坊庭園(国指定名勝)

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雪舟が作庭したと伝わる幽玄な名庭園

山麓に建てられている本坊には、室町時代に生きた水墨画の名手・雪舟が作庭したと伝えられる庭園が伝えられている。室町時代末期には庭園として作庭され、江戸時代の元禄時代頃までには現在の姿に整備されていたという。庭の中心には「心」という字を示す「心字池」が築かれ、その池の内には鶴と亀を模した鶴島・亀島を配置している。さらに2本の滝やモミジを中心とした植栽、借景として取り入れた愛宕山など、周辺の自然と融和することを念頭におきながら作庭されている。秋の時期に愛宕山に昇る月の姿が有名で、心字池に写る月の姿など月の鑑賞に適うよう設計された庭園であると指摘されている。庭園を眺めることができる本坊には室町時代に造立された千手観音坐像を中心に不動明王立像、毘沙門天立像がおまつりされる。

感想■今回訪問したときは、小雨が降り、庭園一帯に霧や雲がかすかに立ち込めているような天気でした。それにより、正面に見える愛宕山の輪郭がうっすらと見えたり、はっきりと見えたり時間の移ろいとともに変化していました。その様子はまるで雪舟が描いた水墨画の中に入り込んだかのよう。また、心を落ち着かせて縁側に座ってみることが大事であるとお聞きし、実践してみると常に移ろう自然の様子に気が付くようになり、自然と調和した庭園の一瞬一瞬の美しさに息をのみました。

ご本尊・千手観音立像

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キジに導かれた伝教大師が霊木に千手観音を刻んだことに始まる

清水寺の本尊は像高約5メートルにもなる千手観音立像である。かつて、唐より帰国した伝教大師は有明海東方の山中に光り輝く光を発見し、1羽のキジを道案内に山中に分け入ったという。山中で苔むした合歓(ねむ)の霊木を発見した伝教大師は、根を地面におろす霊木に一丈六尺(約5メートル)の千手観音立像を刻みお堂を建てたという。現在おまつりされているご本尊は、昭和50年に松久朋琳師・宗琳師により造立された像高5メートルの千手観音立像である。厨子の前にはお前立の千手観音立像がおまつりされている。秘仏であるため通常はその迫力あるお姿を直接拝することはできないが、毎年8月9日・10日にとりおこなわれる「夜観音朝観音」の法要では厨子の扉が開かれる。この「夜観音朝観音」はこの日にお参りすると多大な功徳が得られるとされ、江戸時代頃より行われている文化である。なお、伝教大師がキジに導かれたということから、「きじ車」という郷土玩具が地域に伝えられている。

感想■ご本尊さまが御開帳されている「夜観音朝観音」の様子を写した写真を見せていただきました。人の背丈ほどあるお前立像の背後に巨大な千手観音さまのお姿があり、写真を通してその迫力あるお姿に圧倒されました。かつて伝教大師もこの地にあった霊木に巨大な千手観音さまを刻んだとお聞きし、深山の中に霊木と一体となった観音さまがおまつりされている祈りの空間が広がっていたと思うと感動しました。江戸時代から続く「夜観音朝観音」には、全国よりたくさんの方々をお参りに訪れるとお聞きしたので、いつか参拝したいです。

本堂・阿弥陀堂・撫で仏

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人々の篤い信仰により復興された

現在の本堂は大正時代の火災後、昭和初期に再建された建物である。内部は比叡山延暦寺の根本中堂と同様に、内陣が低い一方で参拝者とご本尊の目線がちょうど同じ高さになる、天台様式で建てられている。創建時の本堂は伝教大師がご本尊を造立したときに整備されたが、源平合戦や龍造寺隆信による焼き討ちなどで焼失と再建を繰り返した。本堂の隣には阿弥陀如来像をおまつりする阿弥陀堂が建てられている。さらに、びんずる尊をおまつりする撫で仏堂も建てられている。堂内のびんずる尊は天保7年(1836)隆安法印が清水寺住職をつとめていた時代に大城七衛門が発願主となり奉納されたという。

感想■視界に本堂の姿が飛び込んできたときその大きさに驚きました。山中にこれほど大きな建物を建てるためにたくさんの人々が尽力したことを強く感じました。また建物内部に入ると人の背丈以上下に内陣があり、内陣に降りると外観以上に本堂の迫力に圧倒されました。この迫力ある本堂は、災害や戦乱に巻き込まれ失われても人々の篤い信仰があったからこそ再建が繰り返されてきたとご住職からお聞きしました。本堂から感じる力強さは、あきらめずに本堂の再建を果たした先人たちの気持ちの強さをあらわしているような感覚を覚えました。

三重塔(福岡県指定文化財)

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福岡県唯一の江戸時代に建てられた木造塔

山上にそびえ立つ三重塔は、柳川藩の棟梁・宗吉兵衛により文政5年(1822)に着工したという。その際、大阪に伽藍を構える四天王寺の五重塔をモデルに五重塔を建てる計画であったという。しかしながら、棟梁の宗吉兵衛が急死してしまい、当初の計画を三重塔に変更して弟子たちが天保7年(1836)に約14年の歳月をかけて完成させたという。天保15年11月23日には柳川藩内全域の僧侶をあつめて、総額250両を使用する盛大な入仏式がとりおこなわれたという。この三重塔の内部には釈迦如来像がおまつりされ、毎年5月8日の花まつりにおいて参拝者に御開帳される。なお、この三重塔が建立される以前は、瀬高地方出身の長崎丸山の遊女の寄進により、単層の塔上に青銅製の九輪をのせた1779年建立の九輪塔が建てられていた。

感想■山上にそびえたつ色鮮やかな巨大な三重塔は、深い山の緑に映え存在感がありました。今までいくつか三重塔をお参りしたことがありましたが、どの三重塔よりもどっしりとした安定感を感じました。もともとは五重塔を建てる計画だったとお聞きしたので、今の塔よりも高くなる建物を安定させるために初層部分にかけて安定感を大事にしたのかなと思いを巡らせました。

乳父観音(ちちぶかんのん)

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子供たちの健やかな成長を祈る

三重塔の近くにある小堂には、慈覚大師円仁が造立したと伝わる観音像をおまつりしている。唐での留学を終え九州に戻った慈覚大師は、嘉祥元年(848)に世の子供たちが健全に育つようにという願いをこめ観音像を造立したという。そうしたころから、母親のお乳がでるようにという願いを成就する観音さまとして信仰をあつめ、乳房の形をかたどったものを願いとともに奉納し、成就した際には千羽鶴や絵馬を奉納するという風習が今も伝えられている。

感想■建物の内部を覗くと、観音さまに多くのものが奉納されていることがわかりました。子供の健やかな成長を願う父と母の気持ちの一端を感じました。

仁王門・山門(福岡県指定文化財)

  • 仁王門・山門(福岡県指定文化財)
    山門
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    山門
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    山門
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    仁王門
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    仁王門
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柳川藩主と藩民の人々の寄付により建立

本堂へと通じる参道には江戸時代に建立された2棟の門が建つ。最初に参拝者を迎える仁王門は、延享3年(1746)に柳川藩主と柳川藩の人々の寄付により建立された建物である。門の左右には口を開ける阿形と口を閉じる吽形の仁王像がおまつりされ、境内に立ち入るものににらみをきかせている。また身体健康を祈り仁王像に大きな草履を奉納する風習が伝えられている。仁王門より参道を進むと、堂々たる姿の山門が建つ。この山門は延享2年(1745)に柳川6代藩主である立花貞則の命により京都の大工・高田蕃蒸(たかだばんしょう)が設計・建立したという。階上には釈迦如来像や文殊菩薩像、四天王立像がおまつりされている。建立当初は傾いていたというが、今日までの部材内の水分の蒸発により垂直になったという。

感想■日本全国の寺社仏閣に藩主などの身分の高い人々が寄進した建物が多くあるが、藩主と藩の領民が一丸となって建てられた建物の存在は初めて知りました。今回の訪問の中でご住職がお話していた「伝教大師の教えはすべての人々のための教えである」という言葉が、仁王門を建てた人々にも受け入れられていたのかなと建物を見ながら感じました。

五百羅漢

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よみがえる高僧たちの姿

仁王門の近くにはお釈迦さまの五百人の弟子の姿をあらわした五百羅漢が安置され、参拝者を迎えている。これらの石像は文化・文政から大正時代にかけて造立されたという。いつのころからか首が落とされてしまっていたが、近年落とされた首が元に戻され、高僧たちの群像がよみがえる。

感想■深い山の中に高僧の石像が数多くおまつりされている光景は、実際に山々の中で僧侶が修行しているかのように感じさせました。また落とされてしまっていた首が信心ある人々により近年元に戻され往時の姿がよみがえっているとお聞きし、人と人との繋がりを大切にされるご住職やお寺の方々の思いがあるからこそ復興が続いているのだと感じました。

report

学生レポート

立命館大学生命科学研究科2年

今回の訪問では、本坊庭園の自然と調和した美しさが印象深く心に残っています。小雨が降り少し霧がたちこめる天気のなか庭園を眺めると、木々や岩、借景の愛宕山の輪郭が一瞬一瞬で変化し、まるでこの庭園を作庭したとされている雪舟が描いた水墨画の世界に入り込んだかのような感覚を覚えました。また、普段の生活では心を落ち着かせて何かを見るという習慣がなかったことに気が付き、心を落ち着かせて物事をみることの重要さに気が付かされました。
さらにご住職とのお話の中で、「すべての人々のためにある伝教大師の教えをもとに、人と人の交流を大切にする文化が清水寺にはある」という言葉が印象深かったです。境内を巡ると、藩主と領民が一丸となって建てた建物が伝えられていたり、実際に参拝に来られた人々がご住職やお寺の方と楽しそうにお話している場面があり、ご住職からお話しいただいた精神が今だけでなく、過去に生きた先人たちも持ち合わせており、そうした先人たちの清水寺に対する想いがあったからこそ清水寺の文化が今に伝えられているのだと実感しました。

history

ご由緒

大同元年(806)、唐より帰国した伝教大師により開かれたと伝わる。伝教大師は有明海東方の深山に輝く光を発見し、1羽のキジを道案内としその光のもとに苔むした合歓(ねむ)の大木があることを見出した。伝教大師はその大木を切り倒さずに一丈六尺の千手観音立像を刻み、礼拝するための建物を整備し、千手観音がおまつりされる霊地として大いに繁栄したという。しかしながら、度重なる火災や平家の落ち武者をかくまったことによる焼き討ち、戦国時代には龍造寺隆信による焼き討ちなどにまきこまれた。災害や戦乱に巻き込まれながらも人々の援助を受け再興が繰り返され、境内には江戸時代に建立された建物が今に伝わる。1年に一度、ご本尊が御開帳される「夜観音朝観音」の法要には日本全国から参拝者が訪れる。

info

参拝情報

名称
本吉山清水寺
(もとよしざんきよみずでら)
所在地
福岡県みやま市瀬高町本吉1119-1
googleMAP
参拝時間
■本坊庭園:9:00~17:00
 ※休観日 月曜日(祝日の場合は除く)【11月中は毎日開園しております】
​ ※但し、毎月18日は観音縁日のため休観
拝観料
■本坊庭園:庭園保存費 大人300円
宗派
天台宗
御本尊
千手観音
宝物殿
アクセス
【鉄道でお越しの方】JR「瀬高」駅から車で約10分、九州新幹線「筑後船小屋」駅から車で約15分
【お車でお越しの方】九州道みやま柳川ICから約4分
駐車場
無料駐車場(本坊前大駐車場 約150台)
Webサイト
https://www.kiyomizudera-fukuoka.com/
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