history
ご由緒
弘仁14年(823)、嵯峨天皇の孫にあたる従三位中納言源師親卿が千手観音の霊示により開いたと伝わる。その際、慈覚大師円仁を開山に迎えたという。往時は三宅郡の護国の寺となり、三院七坊をかかえる大寺として発展した。その後、三池大地震や複数の戦乱に巻き込まれたが、その都度領主により庇護を受け伽藍が復興されてきた。
最澄の造像した薬師如来・千手観音像に始まる大牟田の古刹
いいね
0
ふこうじ
福岡県大牟田市
普光寺は伝教大師最澄によって薬師如来像・千手観音像が造られ、その像をまつる寺院を慈覚大師円仁が開山したことに始まる寺院です。様々な歴史を積み重ね、大牟田市市の指定文化財のうち7〜8割という多くの文化財も残す普光寺は樹齢500年にもなる梅の名所でもあります。有明海を望む普光寺から、これから中国へ渡ろうとした最澄・円仁の2人に思いを馳せてみませんか。
観音堂は17世紀中期(江戸時代前期)の建築で、中央部に四本の円柱、その周りを12本の角柱で囲む「一間四面堂」である。また前方の円柱を境に前後に分け、中世密教仏堂にみられる外陣・内陣を表す構成である。
類似する構成の建物は福岡県内で3つほどあるが、他の2つは改変が加えられており、原形を留める貴重な建築である。中にある厨子も江戸時代前期までさかのぼる可能性があるが、観音堂に対して大きく厨子の上部が収まっていない。江戸時代末から明治時代にかけて衰退したときに山内にある使える部材を集めてこのお堂を作ったためであると考えられている。
厨子の中に本尊である千手観音像が安置され、厨子の周りに不動明王像・毘沙門天像が安置される。この3駆で一具として造られたと考えられている。近年不動明王像・毘沙門天像を修理した際に江戸時代の修理銘が出てきている。
最澄が中国へ渡る前に九州を周り、薬師如来像を造っていた際に、千手観音が自分も共にまつってほしいと現れたため、祠に薬師如来と千手観音をともに安置したという伝承が残る。
平安時代末から鎌倉時代にかけての造像とみられる像で福岡県の有形文化財に指定される。当初はクス材の一木造であったとみられるが、現在は当初部が頭から胸部にかけての部分のみで、後にヒノキ材により修復が行われている。
最澄が中国へと渡る前の季節調節の間に九州の様々な場所を訪れ、造られた薬師如来像の一駆であるという伝承が残る。
仁王像は元は山門に安置されていたが、老朽化のため本堂に移された。この金剛力士像は火災にあい、吽形像体部に関しては大規模な修復も行われている。金剛力士像の阿形像頭部内面に「雲慶九代/時仏子法眼康永/弟子正永」、吽形像頭部内側に「奉造立仁王尊 住持澄全/干時文明五年己亥十一月十五 大勧進澄□/大願主源親澄幷良松丸」の銘が記される。この銘から文明十五年(一四七三)に運慶9代を名乗る康永によって造像されたことが分かる。康永は他に、和歌山県東光寺不動明王像、愛媛県雲門寺釈迦三尊像を造っている。
慈覚大師円仁は、伝教大師最澄の高弟の一人で普光寺の開山である。最澄によって彫られた本尊を国守であった嵯峨天皇の皇孫、三毛中納言源師親がお寺として整備し、中国へ渡るために訪れていた円仁を開山として招いたとされる。
ヒノキ材による寄木造で玉眼を嵌入する。像内の墨書により「筑後国三池南郷普光寺/京五條富小路弁阿闍梨□作□之/正長二年八月廿日」の墨書銘があることから、室町時代の正長2年(1429)に京都で造られたことがわかる。
福岡県の天然記念物である臥龍梅は、樹齢500年にもなる梅の木である。臥龍梅の見頃は、例年3月の始めになる。臥龍梅は一本の木が大きく広がっており、何代にもわたり受け継がれ今のような形になったのだと考えられる。江戸時代の名所案内の中に「・・・三池山山中に蜘蛛が地を這うような梅木がある」との記載があり、そのころからの梅の名所である。観梅の時期には多くの人々が訪れ、多い時で20日間ほどの間で一万人ぐらいが訪れる。
学生レポート
奈良大学文学部文化財学科4年
ご由緒
弘仁14年(823)、嵯峨天皇の孫にあたる従三位中納言源師親卿が千手観音の霊示により開いたと伝わる。その際、慈覚大師円仁を開山に迎えたという。往時は三宅郡の護国の寺となり、三院七坊をかかえる大寺として発展した。その後、三池大地震や複数の戦乱に巻き込まれたが、その都度領主により庇護を受け伽藍が復興されてきた。
参拝情報