history
ご由緒
平安時代初期の大同三年(808)、天台座主慈覚大師円仁により創建されたと伝えられている。 江戸初期の元和元年(1615)、火災により堂舎のほとんどを焼失するも、寛永元年(1624)に徳川家光の命により再建され、新たに不動堂も創建された。 江戸時代を通し、江戸五色不動の一つである『目黒不動』として信仰を集め、壮麗な伽藍は「目黒御殿」と呼ばれていたという。瀧泉寺の境内を含む一帯からは縄文時代・弥生時代の住居跡や遺物が発見され、「目黒不動遺跡」として知られている。
江戸の人々に愛された江戸五色不動の一つ『目黒不動尊』
いいね
0
りゅうせんじ
東京都目黒区
境内にはお堂や独鈷の滝のほか、多くの仏様がおまつりされています。徳川幕府の歴代将軍が参詣に訪れたという江戸時代の堂塔伽藍は『目黒御殿』と呼ばれ、江戸随一の名所として親しまれていました。惜しくも戦災によりほとんどの建物が焼失してしまいましたが、昭和56年(1981)、大本堂が再建され、国内外を問わず多くの参詣者が集う東京の名所として親しまれています。
瀧泉寺の中心に建つ大本堂。昭和56年(1981)に再建された建物である。鉄筋コンクリート造の懸造の建物で、千鳥破風や唐破風を組み合わせている屋根が特徴である。
堂内の天井には、日本を代表する画家の一人である川端龍子による「波涛龍図」が描かれている。堂内中央には、慈覚大師円仁が自ら刻んだと伝えられている秘仏御本尊・不動明王がおまつりされ、そのお姿は12年に1度、酉年にご開帳される。
秘仏御本尊の左右には、瀧泉寺を創建した慈覚大師のお像や中興した生順僧正のお像、珍しい立っているお姿の愛染明王、それぞれの生まれ年を守護するという普賢菩薩騎象像、虚空蔵菩薩立像、文殊菩薩騎獅像など様々な仏様や高僧のお像がおまつりされている。
慈覚大師円仁が15歳の時、出身地である下野国から比叡山に向かう際にこの地に立ち寄った。その夜、慈覚大師の夢枕に、右手に降魔の剣を持ち、左手に縛の縄を握りしめた憤怒の形相をしたお姿が現れたという。夢から醒めた慈覚大師はそのお姿を自刻してこの地に安置した。その後、中国で密教を学んでいた慈覚大師は、長安の青龍寺で、不動明王を拝したところ、夢枕に現れたお姿と同じであることに気づき、大いに感銘を受けたそう。帰国後、不動明王の姿を感得したこの地に不動明王を祀る堂宇を創建しようと独鈷を投げたところ、刺さった地面から泉が湧き出したことから「独鈷の滝」と呼ばれ、「瀧泉寺」の寺号の由来となっている。
清らかな水が湧き続ける「独鈷の滝」は、滝行を行う修行の場。江戸時代末期には、島津藩主・島津斉彬公の病の回復を祈り、西郷隆盛が滝行を行ったという。「独鈷の滝」の近くには滝行をする行者が着替える場所として使われていたという垢離堂(こりどう)が伝えられ、青龍大権現がまつられている。現在では「独鈷の滝」で滝行をすることはできないが、「水かけ不動尊」に参拝者が水をかけ、滝行の功徳を得ているという。
本堂の裏手の奥ノ院にまつられている大日如来像は、銅製で、江戸時代の天和三年(1683)に造られた仏様。横山半右衛門尉正重(よこやま はんえもんのじょう まさしげ)という鋳物師が関わった事、寄進した方々、僧侶の名前が刻まれており、江戸時代の信仰の歴史を今に伝えている。
観音堂は、本堂を正面にみて参道の右手側に建つ。観音堂には、聖観音菩薩を中心に、向かって右手に千手観音菩薩、左手に十一面観音菩薩をおまつりしている。瀧泉寺の観音堂は、江戸時代の寛永18年(1641)~元禄11年(1703)にかけて開創されたとされている「江戸三十三観音霊場」の第33番(結願)札所として知られており、現在もたくさんの巡礼者が参拝している。
前不動堂(まえふどうどう)は、江戸時代中期頃に建立されたとされる極彩色の建物で、独鈷の滝の左側に建つ建物。江戸時代、将軍や大名の参拝の際、一般庶民は本堂の近くでお参りする事ができなかったため、庶民がいつでもお参り出来るようにと建立された建物であるという。 勢至堂は、江戸時代中期頃に建立された建物で、前不動堂の左手に建つ建物。建物の意匠が前不動堂と似ているため、前不動堂が建立されたすぐ後に建立されたと考えられている。
大本堂へと続く石段の途中の岩窟の中にまつられている役行者像。江戸時代の寛政8年(1796)に造立された銅造のお像で、太田駿河守藤原正義(おおた するがのかみ ふじわらまさよし)によって造立されたと銘文が残されている。手足以外は一つの鋳造で手掛けられており、江戸時代の鋳造技術の高さを表すお像として知られている。
瀧泉寺の境内の入口に建つ仁王門の左右には、仁王像がまつられている。向かって右側には、口を開く阿形像(那羅延金剛、ならえんこんごう)を、向かって左側には口を閉じる吽形像(密迹金剛、みっしゃくこんごう)をまつる。仁王門の二層目には、仏教の守護神とされる韋駄天(いだてん)をまつる。
仁王門をくぐると、正面に地蔵堂が建つ。地蔵堂には地蔵菩薩と地蔵菩薩の化身とされる閻魔大王、三途の川で亡者の衣をとるという奪衣婆がまつられている。 地蔵堂を正面に見て右手側に進むと、阿弥陀堂にたどり着く。阿弥陀堂は、回向供養の道場で、西方極楽浄土に主尊である阿弥陀如来を中心に観音菩薩、勢至菩薩をおまつりしている。
青木昆陽(あおき こんよう、1698 - 1769)は、江戸時代に活躍した幕臣で、飢饉に苦しむ人々のためにサツマイモの普及に尽力したことから、「甘藷先生」と呼ばれ親しまれている。 享保17年(1732)、日本全国に被害をもたらした享保の大飢饉の際、青木昆陽は、第8代将軍を務めていた徳川吉宗公に伝え、幕府の許可を得て、現在の小石川植物園などでサツマイモ栽培を奨励した。
青木昆陽は瀧泉寺が伽藍を構える目黒の地を気に入っていたといい、生前に、目黒の地に自信の墓を建てていたという。瀧泉寺の境内の裏手にはその時の青木昆陽の墓が伝えられ、国の史跡に指定されている。
瀧泉寺では、毎年10月28日に「甘藷祭り」が開催されるとともに、境内では、毎年地域の親子によってサツマイモが育てられ、たくさんの人々の憩いの場となっている。
学生レポート

京都大学文学部4年
ご由緒
平安時代初期の大同三年(808)、天台座主慈覚大師円仁により創建されたと伝えられている。 江戸初期の元和元年(1615)、火災により堂舎のほとんどを焼失するも、寛永元年(1624)に徳川家光の命により再建され、新たに不動堂も創建された。 江戸時代を通し、江戸五色不動の一つである『目黒不動』として信仰を集め、壮麗な伽藍は「目黒御殿」と呼ばれていたという。瀧泉寺の境内を含む一帯からは縄文時代・弥生時代の住居跡や遺物が発見され、「目黒不動遺跡」として知られている。
参拝情報
