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ご由緒
寺伝によれば、大宝元年(701)、文武天皇の勅願により、義淵により開山。考古学的遺物から奈良時代の創建は確実視される。 平安時代に造営された仏像が多く伝わり、その多くが国宝や重要文化財に指定され、当時の道成寺の隆盛を窺わせる。 平安時代に成立した説話をもとにした安珍・清姫の物語は後に浄瑠璃や歌舞伎にも取り入れられ「道成寺物」と称され人気を博している。
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どうじょうじ
和歌山県日高郡日高川町
奈良時代頃には現在の場所に存在していたとされる道成寺。様々な演目の由来となった安珍・清姫の伝説は、古来より道成寺にたくさんの人々が訪れていたことを物語っているのかもしれません。 道成寺に数多く伝わるお像や文化財から、道成寺に集った古の人々に思いをよせてみてはいかがでしょうか。
境内の入り口にそびえる仁王門は元禄4年(1691)の建立。平成5年に塗り直された。発掘調査により、かつて仁王門の場所には中門が建てられており、その両脇には複廊式の回廊が取り付けられていた。仁王門の前には62段の石段がある。石段の両脇の土手は逆ハの字型に整備され、石段の上部と下部で幅が異なっている。そのため、遠近法により登る際は実際よりも石段の長さが短く感じ、下る際は石段の美しさが際立つという。また、この石段は能の『道成寺』や歌舞伎の『京鹿子娘道成寺』にある乱拍子という場面の由来となったと言われている。
本堂は墨書銘及び瓦銘から正平一二年(1357)頃から天授四年(1378)頃にかけて建てられたものと考えられ、一重、入母屋造り、本瓦葺き、南面して建つお堂である。中世に発達した軸組貫構法を用い、意匠的には伝統的な和様と禅宗様の細部意匠と、南都で広がった独特の様式をかなり自由に取捨選択しながら調和させ、独自の造形を造り上げている。この自由な建築造形の試みは、建立に20年余りの時間を要したことも合わせ社会情勢の定まらない南北朝期の造営の実情を示しているようである。また、昭和63年から平成3年にかけて行われた本堂の解体修理の際に、本堂の敷地が1300年間にわたり一度も雨風にさらされていないことが確認されたという。
かつて国宝・千手観音立像がおさめられていた厨子の内部には、奈良時代に造立された千手観音立像が南面しておまつりされている。木心乾漆という技法により造立されたこの像は、厨子の背面側におまつりされる北面する南北朝時代造立の千手観音立像の胎内におさめられていた。発見時には破損が甚大であったが修復され、往時の姿がよみがえっている。北を向く千手観音立像は、本堂を建立した逸見万壽丸源清重により、本堂と同時期に造立された仏像である。33年ごとのご開帳とその中間、16年と6ヶ月の中開帳のタイミングで扉が開かれる。北面の千手観音立像は造立時より破損していた奈良時代の像をおさめるための鞘仏として造立されており、古の像を後世へ守り伝える人々の熱意を今に伝える。どちらも国の需要文化財に指定されている。
かつて本堂正面の厨子内におまつりされていたという千手観音立像とその脇侍の2躯の菩薩立像は、平安時代前期・9世紀頃に造立されたと考えられている像である。それぞれ3m近くにもなる巨像で、表面に金箔が多く残存している。通常の千手観音立像は42本の腕が表現されているが、この像は44本であることが特徴的である。1994年に国宝に指定された。お像の構造は、それぞれヒノキ材の一木造で、台座まで一材で彫っている。しかしながら、千手観音立像の頭部前面は別材となっており、その理由として、海中より出現した小さな仏像を本尊の頭部内におさめたという縁起の逸話との関連が推測されている。脇侍である菩薩立像は、それぞれ日光菩薩・月光菩薩とされる。千手観音の脇侍として日光菩薩・月光菩薩を配置することの典拠は奈良時代に隆盛していた「雑部密教(ぞうぶみっきょう)」(雑密とも)に関連する経典である『千手千眼観世音菩薩広大円満無外礙大悲心陀羅尼経』(千手陀羅尼経は略称)に求めると考えられている。なお、千手観音立像の光背の年輪年代を調査した結果、1052年に伐採された部材が使用されていることが判明したことから、三尊像に関してこの年代に修復が行われているのではないかと推測されている。
釈迦三尊像の中尊である木造釈迦如来坐像は、像高227.0 cmの巨像で、ヒノキ材の寄木造の構造をとっている。頭部は3つの材を寄せ、体部は、前面と左右側面、背面を箱状に寄せる箱形構造をとっている。この釈迦如来坐像の両手先をはずして年輪年代測定を行ったところ、左手の最外側が721年、右手の最外側が722年と判明した。残存部は木材の中央付近で造立されていたことを考慮し、釈迦如来坐像の両手は8世紀後半の奈良時代後期に造立されたと考えられている。頭部や体部は体や衣紋の表現から鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて造立されたと考えられている。また、平安時代末から鎌倉時代の初めにかけて造立されたと考えられている仏手も伝わっている。奈良時代の造立と判明した仏手は外されて宝仏殿に展示されている。脇侍には、文殊菩薩立像(像高:300.6 cm)と普賢菩薩立像(像高:298.1 cm)を配置する。両脇侍の構造は、ヒノキ材の寄木造で、頭部を2つの材を寄せ、体部を箱型構造をとっている。彫刻様式より、中尊と同じ鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての造立と考えられている。これらの釈迦三尊像は、現在の宝仏殿前に遺構が残る金堂に安置されていた仏像であると考えられている。
国の重要文化財に指定されている木造四天王立像は、持国天立像(像高:197.5 cm)、増長天立像(像高:195.0 cm)、広目天立像(像高:188.5 cm)、多聞天立像(像高:185.0 cm)から構成されている。宝仏殿に安置される以前は、本堂にまつられ木造千手観音立像(国宝)の四方を固めていたという。持国天立像と増長天立像は、かつて二天立像として中門に安置されていたとお寺では伝わっている。年輪年代測定を実施したところ、持国天立像と増長天立像は奈良時代後半、広目天立像と多聞天立像は平安時代前期に造立されたことが判明した。
道成寺に伝わる毘沙門天立像は、平安時代前期(9世紀)に遡ると考えられているお像で、単独でまつられる「毘沙門天立像」として日本で2番目に古い現存作例であると考えられている。像高は124.0 cmで、内刳りはなく、左手指以外の本体と足元の邪鬼を一木から掘り出している。身にまとう鎧の装飾の緻密さが特徴的で、唐の時代に造立された石造彫刻における表現との関連性も推測されている。通常は東京国立博物館に寄託され、道成寺では通常参拝出来ないが、北向本尊が御開帳される際などに、道成寺に里帰りすることもある。
道成寺に伝わる兜跋毘沙門天立像は、像高201.1 cmで、本体と足元の地天女を1つの材から彫り上げる一木造の毘沙門天立像である。かつて入唐した僧侶が日本へもたらしたとされる毘沙門天の図像で、真言宗・天台宗の寺院で多く信仰された毘沙門天像であるという。兜跋毘沙門天像には様々な造形様式があり、道成寺に伝わる兜跋毘沙門天立像は長袖衣を着る東アジア風の様式であるという。造形表現から平安時代の10世紀頃に造立されたと考えられている。
木造十一面観音菩薩立像は、像高133.7 cmで、内刳りのない一木造のお像である。髻と頭上に仏面と菩薩面をあらわし、左手に蓮のつぼみをいれた水瓶を、右手は与願印を結ぶ。様式などから平安時代中期、10世紀後半に造立されたお像であると考えられている。
伝義淵僧正坐像は、平安時代に造立されたと考えられている。像高81.8 cmでケヤキ材の一木造(両手先以外)のお像である。顔面を含む像前面の摩滅が激しく像主の特定はされていないが、左肩に吊り袈裟をかけ、右肩に横被をかける服装から、道成寺の開基である義淵僧正を含む高僧像であると考えられている。宮子姫坐像は、像高45.4 cmでクスの一材(面相部は別材矧ぎ)からなるお像である。宮子姫は文武天皇の夫人となり、聖武天皇の母であるという。道成寺創建の願主であると伝わる。頭巾をかぶり、合唱して座る尼の姿で彫刻されている。道成寺に伝わるところによると、道成寺近くにあった九海人王子社(くあまおうじしゃ)のご神体であったという。
宝仏殿には、日本で造立された様々な時代の仏さまをおまつりしているとともに、日本だけでなく様々な国から縁あって道成寺へ集った仏さまがおまつりされている。また、道成寺の門前で発掘された銅鐸や奉納された巨大な絵馬など道成寺が伽藍を構える地を中心に育まれた文化を象徴する文化財を数多く展示している。
延長6年(928)、熊野詣をしていた僧侶・安珍と土地の娘・清姫との間の悲恋の逸話が道成寺に伝わる。道成寺に伝わるこの逸話は、11世紀頃にまとめられたという『法華験記』に記載されているという。この逸話をもとに、能や歌舞伎、浄瑠璃など様々な演劇で『道成寺物』の演題が作成された。縁起堂では、この逸話の解説を絵巻を用いながら聞くことができる絵とき説法が行われる。
本堂の後方に建てられている常念仏堂には、五劫思惟阿弥陀像がおまつりされている。定印を結ぶ両手を衣の内に入れて思惟している姿をしている。「五劫(ごこう)」とは、下界に降りた天人が岩を衣でなで、それによって岩が無くなる期間である「劫」を5回繰り返す時間を表し、想像もつかないほどの長い時間を意味している。この阿弥陀像は『無量寿経』に説かれる阿弥陀が五劫という長い時間思惟し四十八の大願を成就したということを、頭髪を盛り上げる事で造形的に表しているという。現在の建物が建立される以前は、宝永4年(1707)に建てられた旧念仏堂にまつられ、旧念仏堂と同じ時期の造立と考えられている。
本堂に向かって右側に立つ三重塔は、江戸時代に建立された建物である。総ヒノキ造の建物で、高さがおよそ20メートルの建物である。三重塔の心柱は、道成寺より約20キロメートル離れた妙見神社にあった御神木を使用しているという。1層目と2層目は平行垂木であるが、3層目は扇垂木という別々の建築様式となっていることが特徴的である。なぜこのような別々の建築様式を使用しているのかは不明であるが、これには、2層目まで建立した棟梁が巡礼者に扇垂木の方法を教えてもらい3層目だけ扇垂木で建立、その後、素人に教えてもらったことを恥じた棟梁はノミを口に含み投身自殺をしたという民話が伝えらえているというが、実際にはそのような事実はないという。
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立命館大学博士課程1年
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立命館大学生命科学部4年
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寺伝によれば、大宝元年(701)、文武天皇の勅願により、義淵により開山。考古学的遺物から奈良時代の創建は確実視される。 平安時代に造営された仏像が多く伝わり、その多くが国宝や重要文化財に指定され、当時の道成寺の隆盛を窺わせる。 平安時代に成立した説話をもとにした安珍・清姫の物語は後に浄瑠璃や歌舞伎にも取り入れられ「道成寺物」と称され人気を博している。
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