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ご由緒
飛鳥時代の慶雲元年(704)、文武天皇の勅願により行基が創建したという。平安時代末期の治承元年(1177)、高倉上皇の病気平癒と遠州灘の海上安全のために、平清盛の嫡男・平重盛により、比叡山から伝教大師作の聖観音像、厳島から弁財天像が安置され、諸堂が再建される。戦国時代には兵乱により焼失するが、大須賀城主大須賀康高により再建。江戸時代には寺領37石を賜る。
遠州灘の海上安全を願って
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ふもんじ
静岡県掛川市
海上交通の難所である遠州灘の近くに伽藍を構える普門寺の境内には、古来より海に関わる人々からの祈りの空間が広がります。普門寺の境内の前に広がる海は交通の要衝であり、海を通る歴史上の偉人たちとの逸話も伝えられています。
観世音堂の中央には、ご本尊である聖観音像がおまつりされている。かつて、平重盛が海上交通の安全と高倉天皇の健康を祈り、比叡山より伝教大師作の聖観音像を勧請したという。聖観音像をはじめ脇侍2体は秘仏とされ、観世音堂中央の宮殿の内部におまつりされる。煌びやかな宮殿の前には、お前立ちの千手観音立像が参拝者の祈りを受け止めている。
池の中央に建つ弁天堂は、嘉永3年(1850年)諏訪立川流の立川(宮坂)昌敬による建物である。建物を構成する部材である蟇股には十二支の精緻な彫刻が彫られている。弁天堂のご本尊は、平重盛が厳島より勧請したという弁財天像である。秘仏であるため、通常厨子の扉はしまっている。本尊の前にはお前立ちである九頭竜弁財天像がおまつりされている。このお前立ち像は、江戸時代末期に戸隠山から移ってきたという。腹部に菱形の紋が描かれていることから、源氏の流れをくむ武田氏との関連が考えられている。平氏ゆかりの弁財天像と源氏ゆかりの弁財天像が並ぶ珍しい空間が堂内に広がる。
かつて伊豆へ流されていた文覚上人が遠州灘を通過した折、嵐に遭遇してしまったそう。その際、船底の板に不動明王像を彫り祈願をすると、突如として嵐が収まったという。そのとき、陸地の方角をみると、普門寺の伽藍が見えたそう。その後、文覚上人は自分の身の無事を感謝するために普門寺を訪れ、船板に彫った不動明王像を普門寺にまつったという。その不動明王像は海上安全の信仰をあつめ、今日まで守り伝えられている。善光寺堂には板に彫られた不動明王像を立体化したお像がおまつりされる。
善光寺堂の中央には、善光寺におまつりされる一つの光背に阿弥陀如来立像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像がおさまる一光三尊阿弥陀仏(善光寺仏)がおまつりされる。伝承によれば伝教大師最澄が造立したという。堂内には、このお像を善光寺より運んできた時の様子を描いた絵馬が掲げられている。
今から250年ほど前の江戸時代、地域の人々が町ごとに分担し施主となり、西国三十三ヵ所巡礼の各寺院から勧請を受け三十三のお堂を建立したという。霊場が創立されて以来、町内会や個人の資金により維持されてきているという。
学生レポート
立命館大学生命科学研究科1年
ご由緒
飛鳥時代の慶雲元年(704)、文武天皇の勅願により行基が創建したという。平安時代末期の治承元年(1177)、高倉上皇の病気平癒と遠州灘の海上安全のために、平清盛の嫡男・平重盛により、比叡山から伝教大師作の聖観音像、厳島から弁財天像が安置され、諸堂が再建される。戦国時代には兵乱により焼失するが、大須賀城主大須賀康高により再建。江戸時代には寺領37石を賜る。
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