history
ご由緒
寺伝によれば、延暦22年(803)年に桓武天皇の勅願により、最澄と在地の有力者三輪次郎藤原助基によって創建。 平安時代から室町時代にかけて境内の整備や仏像の造立がなされ、そのうち22点の仏像や寺宝が国の重要文化財に指定されている。 かつての御本尊は伝教大師最澄が延暦寺根本中堂の本尊として造立した薬師如来と同じ木から造立された薬師如来像で、織田信長の比叡山焼討ち後に比叡山へと移され、根本中堂の御本尊となっている。
最澄と行動を共にしたお薬師さんと圧巻の仏像群
いいね
0
よこくらじ
岐阜県揖斐郡揖斐川町
「美濃の正倉院」と称されている横蔵寺には、平安時代以降に造立された数多くの仏さまがおまつりされ、国の重要文化財に指定されています。また、横蔵寺のかつてのご本尊・薬師如来立像は、伝教大師が造立し比叡山にお祀りした薬師如来像と同じ木から造立されたお像でした。織田信長による比叡山焼討ち後には、伝教大師と特にゆかりの深い仏さまとして横蔵寺からご本尊・薬師如来立像が比叡山へと移され、現在も根本中堂においてまつられています。さらに、舎利堂には舎利仏(即身仏)がまつられていることでも知られています。
本堂は方五間、檜皮葺、入母屋造の本堂で江戸時代の寛文11年(1671)に完成した。精緻な組物や蟇股等の彫刻が施されている。三重塔は寛文3年(1663)に建立された檜皮葺の建物で、和様の方三間で建てられている。仁王門は、江戸時代初期の延宝3年(1675)に建立された檜皮葺の建物で、和様で三間二間の間取りで建てられている。二層目には梵鐘がかけられており、鐘楼を兼ねている。仁王像の前にスペースが設けられている事から、仁王像の前で仁王会が行われていたと考えられている。
現在の横蔵寺のご本尊は、京都の深泥池から遷座された鎌倉時代初期に造られた薬師如来坐像(国指定重要文化財)であり、60年に一度のご開帳と定められているお像である。現在のご本尊が横蔵寺に移る以前のご本尊は、現在の比叡山延暦寺の根本中堂に安置される薬師如来像である。かつて、伝教大師は後の根本中堂となる一乗止観院に自刻の薬師如来像をおまつりした。その際、同木からもう1体薬師如来像を造立し共に巡錫をしたという。延暦22年(803)、伝教大師が当地を訪れた際、この薬師如来像が動かなくなったことから、薬師如来をまつるお寺を創建した。そのお寺が横蔵寺であるという。時は流れ、比叡山が織田信長によって焼討ちされその復興の際、伝教大師が刻んだという由緒を持つ横蔵寺の薬師如来像が根本中堂の本尊として迎えられた。
正面の小さな赤い厨子に、奈良時代の作とされる金銅薬師如来像がお祀りされている。唐に渡った最澄が天台僧で国清寺の道邃から授かった像であるとされている。その像を最澄は天皇にお見せしたのちに、勅命により横蔵寺の胎内に納めていたものであったとの伝承が残る。通常は厨子の扉が閉められている。
『法華経』の宝塔品を浮き彫りで表現したもので、縦18cm、横16cm厚さ1.5cmと小さいものである。全面を4等分し、中央の宝塔に釈迦多宝二仏並坐、脇仏として文殊普賢の二菩薩、四隅に四天王像等24体の像を表す。また裏面の上方には線刻で飛天を表し、下方には罫線を引き中央に多角形の塔婆を表す。伝教大師入唐将来と伝わる。このような法華経を板彫曼荼羅で現存するものは少ない。平安時代後期の作で、国指定重要文化財である。
深沙大将立像は、三蔵法師玄奘が天竺に向かう際にその危機を救ったとされる仏教の守護神であり、『西遊記』の沙悟浄のモデルと言われている。また古くは深沙神と書かれ、泰山府君の化身とも、毘沙門天の化身とも云われる。クスノキ材の一木造の像で、深沙大将像の貴重な平安時代の作例として重要文化財に指定されている。
平安時代末期の寿永2年(1183)に「筑前講師」という仏師によって、平重親を壇越として造像されたことがわかる智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐像である。筑前講師という人物は、運慶や康慶といった奈良仏師の一人であるとされる。造像された年代がわかることに加え、筑前講師という僧綱位になる前の仏師による作例としてわかる像としても貴重である。
須弥山の四方を守護する四天王。東を持国天、南を増長天、西を広目天、北を多聞天がそれぞれ守護する。横蔵寺には南北朝時代に造立された四天王立像が伝えられ、国の重要文化財に指定されている。
平安時代から鎌倉時代にかけて造られたと考えられる十二神将像である。彩色も比較的よくの残っている像である。
仁王像は、坪坂大仏師法眼和尚位定慶によって建長8年(1256)に造像されたことが分かる仁王像である。定慶は作風の類似から兵庫石龕寺仁王像や大報恩寺六観音像、鞍馬寺聖観音像の造像に関わった肥後別当定慶と考えられる。その中で横蔵寺仁王像は、定慶の遺品の中で最晩年の作品である。
即身仏はミイラのことで、生きたまま仏となったため舎利仏と呼ばれる。
ここにお祀りされる妙心上人は、天明元年(1781)に横蔵に生まれた。両親が亡くなったのちに、仏道修行のため巡礼の旅に出て、西国、坂東、秩父の三十三ヶ所、四国八十八ヶ所を巡り、やがて信濃の善光寺の万善堂(大勧進)で受戒。その後、富士山に登る「富士講」の先達を務めた。文化12年(1815年)に山梨県の御正体山の洞窟で断食し、入定。その後、村人によってまつられていたが、明治の初めに山梨県庁へと移され、明治天皇の山梨県行幸の際に天覧に供された。その後、明治22年に上人の出生地である横蔵寺にまつられることになった。
実際にその姿をお参りする事が出来る日本最西端・最南端の即身仏として全国より参拝者が訪れる。
ご由緒
寺伝によれば、延暦22年(803)年に桓武天皇の勅願により、最澄と在地の有力者三輪次郎藤原助基によって創建。 平安時代から室町時代にかけて境内の整備や仏像の造立がなされ、そのうち22点の仏像や寺宝が国の重要文化財に指定されている。 かつての御本尊は伝教大師最澄が延暦寺根本中堂の本尊として造立した薬師如来と同じ木から造立された薬師如来像で、織田信長の比叡山焼討ち後に比叡山へと移され、根本中堂の御本尊となっている。
参拝情報